■ でかい事件に心乱される
吉川 前回は、エピクテトス先生が使う「心像」という言葉をとりあげました。
山本 原語の古典ギリシャ語では「パンタシア」という。みんな知ってる「ファンタジー」の語源でもあった。
吉川 で、その心像がどうしたんだっけ。
山本 え、タイトルにあるとおり「心像の正しい使用」がテーマだよ。もう忘れちゃったの?
吉川 だって、その間いろいろあったじゃない。
山本 え、なにがあったっけ?
吉川 でかい事件があったじゃないか! 国会議員の暴言・暴行スクープとか。あれが頭から離れてくれなくて。
山本 あれはひどかった。
吉川 ああいう騒ぎがあると心乱れちゃって、勉強してたことなんかも、うっかり忘れちゃうんだよね。
山本 無理もない。それはぜひエピクテトス先生に叱ってもらわないと。
吉川 「ちーがーうーだーろー!」って?
山本 もうあの声でしか再生されない。てか、先生がそんな言い方をするとは思えないけど(笑)。
吉川 そうだよね。でもまあ、しょうもないニュースにいちいち心を乱されていては、それこそ「心像の正しい使用」どころじゃないよね……。
山本 うん。たいていのニュースは権外の事象の最たるものだもんね。知ったところでどうしようもないものが多い。さりとて気にしないわけにもいかない。
吉川 若干ネット中毒気味の私にはよくわかるよ。どうしようもなくどうでもいい他人の言動にイライラしたりモヤモヤしたり。もちろんたまにはいいこともあるけれど、これじゃあまるで、権外の奴隷だよね。
山本 とくにネットニュースやSNSの普及で、われわれは権外のことに四六時中わずらわされるようになっているかもしれないね。
吉川 うん。いつか機会があれば先生にも聞いてみたいね。エピクテトス流ネットとの付き合い方。
■ もし自分の体が自由自在なら……
山本 そうした現在わたしたちが置かれている状況も念頭に置きながら、前回のつづきを検討してみようか。
吉川 そうしよう。エピクテトス先生は、こう述べていた。
神々はすべてのうちで最も有力で肝要なもの、すなわち心像の正しい使用だけはこれをわれわれの権内に置いたが、その他のものはこれをわれわれの権内に置かなかった。(★1)
山本 そして「心像」とは、わたしたちが抱く「印象」、心に浮かぶ像ということだった。
吉川 逆に「心像」以外のものは、権内にないわけだ。この直後に出てくるけど、たとえば、自分の身体(肉体)とか財産のようなものは、権外のもの。
山本 自分の体が権外というのは、どうかな。すんなり納得できるだろうか。って、やけに力強く頷いてるね。
吉川 そりゃそうだよ。私は長いこと卓球をやってるんだけど、もし自分の体が自由自在なら、どんな試合も完璧にプレイできるはずだよね。
山本 あ、そうか。でも実際は……
吉川 必ずしも思う通りに体は動かない。これはスポーツをやっていると痛感することかもね。
山本 楽器なんかも同じかも。自分の指を完璧に制御できるなら、どんな超絶技巧を要求される曲だって弾きこなせちゃうよね。
吉川 それに望んで風邪をひいたりする人もいない。
山本 自分でそうしようと思わなくても、体が調子を崩したり、なにかが起きたりする。うん、たしかに自分の体とはいえ、権内にあるとは言えないね。
吉川 そもそも内臓にしたって脳にしたって、自分でなんとかしようと思って動かしているというよりは、勝手に動いているようなものだし。
山本 それに対して神様は、人間に「意欲と拒否の能力、欲求と忌避の能力、つまり心像を使用する能力」を与えたのだ、と書かれている。ここでちょっと心像の具体例が分かる。
吉川 意欲と拒否、欲求と忌避ということは、なにかをしようと欲したり、避けようとすることか。
山本 で、エピクテートス先生は、神様――というのはこの場合、ゼウス――の口を借りて、こんなことを言わせている。
それ〔心像を使用する能力〕に注意し、その中にお前のものを置くならば、お前は決して邪魔されもしないだろうし、また決して妨害されもしないだろう、また嘆いたり、非難したり、何人にもへつらったりしないでいられるだろう。(★2)
吉川 肉体とか財産についてはそうもいかないけれど、自分の心像の使用については、権内にあると指摘しているわけだ。
山本 うん。でも、どうだろう。そうはいっても、冒頭の話じゃないけどさ、われわれは結構、外界で起きることによって、心が千々に乱れたりしているんじゃないだろうか。
吉川 もう少し踏み込んだ検討が必要だね。
★1――エピクテートス『人生談義(上)』(鹿野治助訳、岩波文庫、1958)、15ページ。
★2──同上