■ 心像との戦い=哲学の訓練
吉川 前回は、ポスト・トゥルースとかフィルターバブル、エコーチェンバーといった最近の話題と、エピクテトス先生のいう「心像」との関係について考えました。
山本 ちょっと復習しようか。心像とは、わたしたちが抱く印象、心に浮かぶ像を広く指す言葉。その心像の正しい使用こそ、わたしたちの権内にある唯一の能力だとエピクテトス先生はいいます。
吉川 そして心像の正しい使用とは、なにをしようと欲し、なにをしないでおくか、なにを求め、なにを避けるかの区別を適切に行う能力を指す、と。
山本 でも、各種メディアの発達と普及によって、心像を正しく使用することがなかなか難しい時代になっている。
吉川 うん。いまわれわれは煽り記事やフェイクニュース、それに炎上商法みたいなものに四六時中さらされているからね。
山本 そうしたものに接して、われわれの頭の中は多種多様な心像で満たされるわけだけど、なかには好ましいとはいえないような心像もたくさん浮かんでくる。
吉川 必ずしもフェイクでなくても、たとえばSNSに知人の幸福そうな写真がアップされただけで、自分の人生がみじめなものに思えてきたり。
山本 美味しそうな料理とか、楽しそうなパーティーの写真とか?(笑)
吉川 そうそう、そういうものを見ただけで、ウラミ・ツラミ・ネタミ・ソネミの感情がムクムクと……(笑)。
山本 そういえば、SNSをやめたら幸福感が増すという研究結果もあったね。(★1)
吉川 SNSの過度な使用は、自分ではなく他人が何を持っているかに注意を向ける傾向に拍車をかけて、結果的にその人の幸福感を損ねてしまうのかも。
山本 「あいつの暮らしがうらやましい」という心像に振り回されている。他人の生活なんて、自分の権外にある事象の最たるものなのにね。
吉川 ほんとそう。でも、私も身に覚えがあるんだけど、ついつい気になってしまうものなんだよね。
山本 エピクテトス先生は、そうした心像が現れてくること自体を否定したりはしない。みつをじゃないけど、人間だもの、そういうこともあるさ、って。
吉川 だからこそ、おのれの心像と戦おうではないか、というのが先生のメッセージだった。もっとも、戦いとはいっても、心像を攻撃したりするんじゃなくて、心像をよく吟味しなさいという意味だけど。
山本 うん。そして、この心像との戦い、心像に対する吟味が、そのまま哲学の訓練になる。ここがポイント。
吉川 なるほど。心像を正しく使用する能力を高めるトレーニングというわけだ。実際にどんなふうにして訓練したらいいんだろう?
■ エピクテトス流ブートキャンプ?
山本 エピクテトス先生は、『語録』第3巻第2章「進歩しようとする人は何について修行せねばならないか、およびわれわれは最も大切なことをおろそかにしているということについて」で、このことについて語っているよ。(★2)
吉川 耳に痛いタイトルだね。ほかにも第3巻第8章「心像に対してどう練習せねばならないか」や、第12章「訓練について」がある。
山本 『語録』は講義をそのまま書き起こしたものだから話の重複も多いんだよね。
吉川 そこがわかりやすい理由でもあるけれど。
山本 このあたりの先生の議論をまとめて検討してみようか。
吉川 うん、そうしよう。
山本 まず先生は、心像には大きく分けて三つの領域があるといっている。
吉川 ほう。
山本 第一は、欲望の領域。
吉川 なにかを欲望して得そこなうことのないように、なにかを回避しようとしてかえってそれに陥ってしまうことのないようにするための領域だと、先生はいっているね。
山本 第二は、義務についての領域。
吉川 これについては、秩序正しく、合理的に行動し、不注意に行動することのないようにするための領域だと。
山本 そして第三は、承認についての領域。
吉川 これは、だまされたり、おだてられたり、そういう人間関係で失敗しないための領域だと先生はいっている。
山本 三つの領域のすべてが重要だけれど、なかでも最も緊急を要する領域は、第一の欲望の領域だと先生はいう。
吉川 どうしてだろう?
山本 それは、この領域の心像が激情を喚起するから。
吉川 激情……。
山本 うん。激情は、欲望して得そこなったり、回避しようとしてかえってそれに陥ったりした場合に生じる。これが不安、喧騒、不幸、不運、悲哀、悲嘆、嫉妬、羨望をもたらす。
吉川 そうして生じた激情が、われわれの理性を働かなくさせてしまう、というわけだね。
山本 そう。理性というのは、われわれの権内にある唯一の能力であり、激情のせいでこれが働かないと、心像の正しい使用ができなくなり……と、すべてが駄目になってしまう。
吉川 なるほどね。まずは激情のとりこにならないようにというわけだ。とはいえ、感情をまったくなくしてしまうなんてことは……。
山本 できない相談。
吉川 だからこそ訓練が必要になるというわけだ。
★1――http://www.afpbb.com/articles/-/3066190
★2――エピクテトス『人生談義』下、岩波文庫、17-20ページ