吉川 前回は、エピクテトス先生におでまし願いました。
山本 突然ご降臨なさって驚いたね。
吉川 それで悩み相談をしたのでした。
山本 「上司にムカつく30代男性の相談に答える」っていうね。
吉川 これ、相談者も相談者だと思ったけど、先生も先生で……。
山本 相談に乗るというよりも、お説教しているみたいだったね。
吉川 いわれてみれば、『人生談義』にはそういう展開が多い。
山本 さすが哲学者というべきか、悩みを生みだした条件や状況に目を向けて、再検討していくというスタイル。
吉川 自分がとらわれた悩みそのものを、対症療法でなんとかするのではなく──ときにそれも必要だし有効だけれど──、そもそもどうしてそんな悩みが生まれたんだっけと、足元を見直してみるわけだ。
山本 というわけで、再びエピクテトス先生の教えの検討に戻ろうか。
吉川 そうしよう。
■「自分自身を考察するもの」とは?
山本 どこから続ければいいかな。権内と権外の区別についてはすでに議論したよね。
吉川 前回の終わりで触れた「理性」についてがいいんじゃないかな。
山本 そもそもどうしてここで理性が顔を出すんだっけ。
吉川 その件については、『人生談義』に収録の『語録』冒頭に立ち戻る必要があるね。
山本 ええと、『語録』の巻頭には、邦訳で「われわれの権内にあるものとわれわれの権内にないもの」と題した章がおかれている。
吉川 さっそくここで権内/権外という最重要概念が説明されるんだよね。
山本 でも、ちょっと唐突に話が始まる感じで。
吉川 そうそう。いきなり人間がもっている諸能力について検討される。
山本 読んでみようか。最初の一文はこんなふうに始まる。
「他の諸能力のうちどれ一つとして、自分自身を考察するものでないこと、従って自分自身を是認したり、否認したりするものでないことを諸君は発見するだろう。」(★1)
吉川 それに続いて具体例として、読み書きの能力とか音楽の能力が例に挙げられているね。
山本 いまなら、車を運転する能力とか、プログラミング能力とかも入るのかな。コミュ力とか女子力とかいう怪しげな能力も話題になるね。
吉川 人によっていろいろな能力がある。
山本 「吉川くんは、卓球が得意なフレンズなんだね!」みたいな。
吉川 ちょっとなに言ってるかわからない。
山本 そうか。ところで先ほど読んだ冒頭部分は、ちょっとややこしいよね。
吉川 うん、たしかに。言い回しが。
山本 人にはいろんな能力があるけれど、ほとんどの能力は「自分自身を考察するものでない」と。
吉川 なぜそんなことを先生は言い出したのか。
山本 それが問題だね。ちょっと詳しくみていこう。
吉川 うん。
■ 「理性的能力」の登場
山本 例えば、読み書きの能力――そうだね、話を簡単にするために書く能力としておこうか。書く能力というのは、たくさんある文字を区別して、ペンやなにかで実際に文字を書けることだ。
吉川 その書く能力は、「自分自身を考察するものではない」というのが先生の主張。
山本 これだけだと、まだなにを言おうとしているのか分かりづらいね。
吉川 具体例を聞くと腑に落ちるかも。
山本 じゃあ、こんなふうに考えてみよう。友人に手紙を書く場合。メッセンジャーやメールでもいいんだけど
吉川 LINEでもいい。
山本 伝えたい内容を表現するには、書く能力が役に立つ。というか、この能力がないと相手にものを伝えることができないよね。
吉川 うん。
山本 この能力のおかげで、ペンやキーボードを操作し、紙やディスプレイに文字を書きつけることができる。
吉川 スタンプを押すのでもいい。
山本 でも、この能力は、友人になにを書くべきかについては教えてくれない。そもそも手紙を書くべきか、書かずにおくべきかについても。
吉川 たしかに、それはものを書く以前の問題だもんね。
山本 じゃあ、いったいぜんたい、なにを書くべきか、あるいは、書くべきか書かざるべきかを判断する能力はなんなのか。
吉川 それこそが「理性的能力」である、というわけだ。
山本 そう。そこで理性が登場する。
★1――エピクテートス『人生談義(上)』(鹿野治助訳、岩波文庫、1958)、14ページ。