人生がときめく知の技法

第6回 間奏 降臨! エピクテトス先生。上司にムカつく30代男性の相談に答える!(前篇)

 

吉川 さて、ここまでエピクテトス先生の「権内/権外」という考え方に注目してきました。

山本 なにか問題に直面したり、悩みにとらわれたりしたとき、自分の権内にあることと権内にないこと、つまり権外にあることを適切に区別するのが大事だという話だったね。

吉川 そうそう。そこを混同すると、要らぬことで悩んでしまったりもする。

山本 いわばエピクテトス哲学の根本原理だね。

吉川 うん。根本原理を確認したところで、こんどはちょっと具体例で考えてみよう。

山本 エピクテトス先生の『人生談義』のように相談に答えるスタイルにしようか。

吉川 いいね。新聞のお悩み相談みたいなノリで。浜の真砂は尽きるとも、世にお悩みの種は尽きまじ……。

山本 人間だもの。

 

「それはそうと、相談があるとか……」

吉川 あっ、先生! こっちこっち!

山本 えっと……?

吉川 紹介しよう。かの高名なエピクテトス先生にご降臨いただきました。

先生 やっとるね。

山本 えっ……またまた(笑)。コスプレイヤー? 見たところだいぶ本格的だね。なんていうか、本物みたいだ。

吉川 ごめん、話してなかったっけ。この連載のためにツテをたどってさ……。

先生 (テーブルにあるロウブ古典叢書『エピクテトス』を手にとりページを繰る。同書には古典ギリシア語の原文と英訳が掲載されている)ほほう、やっこさん、こんな書き物をしておったか。しかし随分と手を加えてあるようだな。

山本 やっこさんというのは、お弟子さんのアッリアノスさんですね。

先生 そう、なかなか切れる男だった。しかし抜け目なくわしの講義の記録を残していたとは驚いたね。

吉川 先生はご本を書き残されませんでしたが、この『人生談義』がご著書の代わりになっているんですよ。

先生 ふむ。そんなことになるとはな。それはそうと、今日は相談があるとか。

吉川 そうなんです! 読者の方からの悩み相談が届いているので、ぜひ先生のお考えを聞かせていただけたらと。ほら、山本君、あれを読んで。

山本 え? あ、このために用意してたのね。ええと、では相談にいってみようか。こんなお悩みが届いています。

 

私は大学院で修士号をとった後、IT企業に勤めて6年目の男です。自分でいうのもなですが、仕事はできるほうで自信もあります。ご相談したいのは自分のことではありません。今年の春に職場に新しい人が入ってきて、私の上司になりました。女性で私より5歳ほど若い人です。彼女はコンピュータに詳しいわけでもなければ、とりたてて仕事の経験や特殊な技能があるわけでもないのに、日々私たちにあれこれと指図をしてきます。しかも名前は呼び捨てです。非常識だし、理不尽だし、正直言うとムカつきます。仕事は気に入っているのですが、この状況に耐えられません。どうしたらいいのでしょうか。

 

上司の役割と部下の役割

吉川 これはまたいろいろこんがらがっていそうだね。

山本 うん。ちょっと情報量が多い(笑)。

吉川 あの、先生、いかがでしょうか。

先生 なんだ、まだそんなことを言っているやつがおるのか! いささか驚くね。

山本 アッ、ハイ(なんだか現代人を代表してお詫びしたい気分に……)

先生 ローマでもこういう話は、それこそ馬に食わせるほど耳にしたものだ。そもそもなんだね、この男は。

吉川 というと?

先生 だってそうだろう。どこまで度量が小さいのか。だいたいなにを気にしているのか。自分の仕事に自信と誇りをもっているのはよろしい。だが、その後がよろしくない。自分より後からやってきた若い女性が上司になった。だからどうしたというのだ!

山本 彼は、まさにそのことを気に病んでいますね。

吉川 この人の場合、ジェンダーバイアスも気になります。年下の女性が上司になったという状況自体に不満を持っているようにも思える。

先生 度量が小さいというのはそこのところだ。そもそも彼が部下という立場にあるのは、所属している組織の仕組みで決まっていることだ。能力の有無の問題ではない。組織の指揮系統のなかで、ある者は上司となり、ある者は部下となる。それだけのことじゃないかね?

山本 まあ、それはそうですね。世の中が全員エピクテトス先生だったら、争いごとも随分減りそうです。

吉川 ただ、先生。議論を明確にするためにお尋ねするのですが、それは現状肯定というものではないでしょうか? そういうものなんだから諦めろとおっしゃるのでしょうか?

先生 いかにも。その疑念に答えるために、別の角度から、こう言ってみようか。その上司は監督者なのであろう?

山本 はい。いわゆるマネージャーですね。

先生 監督者の役割とはなにかね?

吉川 監督することです。ありゃ、これだと同語反復か。つまり、職務がちゃんと遂行されるようにチームを動かすこと?

先生 さよう。その場合、監督者にとって、個々の専門職に関わるような能力が高いか低いかは関係ない。なぜなら、監督者の役割はあくまで監督することだからだ。

吉川 たしかに、監督のいちばんの役割はチームの指揮ですよね。野球やサッカーでも、「名選手、必ずしも名監督にあらず」という言葉があるように、監督は名選手である必要はない。

先生 そもそも監督者である上司と、部下であるこの男とでは、役割がまったく違う。だから見ているものもまったく違うんじゃないかね?

山本 そうですね。役割が違えばパースペクティヴ、遠近感も違う。それは意外と意識しづらいことかもしれませんね。そうはいっても実際のところ、人は自分の視界しか経験していないものだから。

吉川 想像のなかで自分と他人の立場を交換してみる難しさですね。

先生 うむ。そもそも、彼がなすべきは、監督者と自分の専門の能力を比べることではない。そんなことをしてみたところで、なにも得るものはない。

山本 では、彼はどうすればいいんでしょうね?