山本 じゃあ相談いってみよう。
吉川 こんなのが来てるよ。「先生、どうして私が首を切られなければならないのですか?」って。
山本 また極端だな。首を切られるというのは、文字どおり斬首される、という意味だよね?
吉川 うん。いきなりこんな話から入るのもなんだけど、極端なケースから出発したほうが根本原理を理解しやすいだろうから。
■ 理不尽で物騒な時代
山本 それに、当時の社会情勢を考えれば、十分にありうる問いでもあるよね。なにしろエピクテトスが生まれたのは暴君として悪名高いローマ帝国第5代皇帝ネロの時代だったわけで。
吉川 18歳にして皇帝に即位したネロは、かつての家庭教師でもあった哲学者セネカらのサポートによって、最初のころこそ名君と称される善政を行うけれど、次第に恐怖政治の虜となっていく。
山本 そして自らに刃向かう者、あるいは刃向かうのではないかと疑った者を次々と捕らえ、殺していくんだよね。
吉川 まさに暴君。恩師であるはずのセネカも、ネロに命じられて自殺しちゃった。当のネロも最後には追いつめられて自殺しちゃうし。とにかく物騒な時代。
山本 ネロが皇帝の座から追われ自殺したのは西暦68年のこと。その後も暗殺や政変などにより入れ替わり立ち替わり新たな皇帝が即位するんだけど、まともだったのは五賢帝のひとりハドリアヌスくらい。
吉川 残りはみんな血なまぐさい行為を重ねたあげく、ろくな死に方をしていない。
山本 皇帝の蛮行だけでなく、住民の反乱や度重なる戦争による政情不安も人びとにとって大きな脅威だった。
吉川 そんな世の中だから、いつなんどき自分が呼びだされて死を宣告されないともかぎらない。そう考えると、生徒の相談はけっこう現実的かつ切実な問いだったことがわかるよね。
山本 現代に置き換えると、「どうして私がクビにならなくてはならないのですか?」「どうして私がフられなければならないのですか?」みたいな感じかな。
吉川 本人からすれば、理不尽というしかないような状況だよね。
山本 クビの場合には、圧倒的な権力関係の不均衡のもとで、一方的にお払い箱にされてしまうわけで。フられる場合については、もうちょっと微妙だろうけれど、それでも相手側のイエスがないと交際そのものがスタートしないわけだから、生殺与奪の権利は相手側にあるように見える。
吉川 あくまでフられる側から見れば、の話だけど。
山本 うん。それじゃフられて当然だろ、って思えるケースも多いけどね。
吉川 たしかに。
山本 まあ、どちらにせよ当人にとって現実的かつ切実な問題であることは間違いない。
■ エピクテトス先生の真意は?
吉川 で、それに対するエピクテトス先生の返答が、「じゃあ、みんなが首を切られたらいいと思うのか?」っていう。
山本 ちょっと人を食ったような回答だよね。それに、なんだか冷たい感じもする(笑)。
吉川 先生はどうしてこんなふうに答えたんだろう。
山本 まず、エピクテトスはなにも相談者を馬鹿にしているんじゃないし、「お前なんか死んでしまえ」と突き放しているのでもないよね。あくまで真面目に、また彼の哲学にしたがって質問に答えようとしている。
吉川 これは『人生談義』に一貫して見られる姿勢。
山本 一種の修辞疑問だよね。修辞疑問とは、自分の考えを強く断定するために、あえて疑問文で表現するレトリック。「未来を知る者がいるだろうか?」(いや、いない)というように。
吉川 では、エピクテトスは「君だけが首を切られなければならない」と主張したかったのか。そうだとしたら本当に冷たい師匠なんだけど、そうではない。
山本 「君だけが首を切られなければならない」というのはどう考えても不合理だしね。
吉川 なにしろ恐怖政治の時代、斬首に正当な理由などないわけだから。かといって、「みんなが首を切られたらいい」という主張も同じくらい、あるいはそれ以上に不合理。
山本 つまり、「君だけが首を切られなければならない」も「みんなが首を切られたらいい」も、どちらも馬鹿馬鹿しいほど不合理な主張なわけだ。
吉川 うん。じゃあ、彼の真意はどこにあるのか? 修辞疑問によって彼はなにを伝えようとしたんだろう?
山本 彼は、そんなことを思い悩んだところでどっちに転んでも馬鹿馬鹿しい結論にしかならないよ、ほかに考えるべきことがあるんじゃないか、そう言っているんだよね。
吉川 いわば考え方そのものを変えようと言っているわけだ。では、ほかに考えるべきことがあるという、その考えるべきことって、いったいなんだろう?