モーリス・ブランショの『終わりなき対話』が出版から半世紀を閲してようやく全訳された。この長大かつ難解なテクストを端正な日本語に訳してくださった訳者たちのご苦労に対して一読者としてまず心からの感謝の意を表したい。それでも、ブランショの主著としては和訳が遅きに失した憾みは残る。本書がもし70年代や80年代に日本語で読めることができたら、それ以後の日本の批評の語法はずいぶん違っていたものになっていただろう。
私自身はこの本を70年代の終わり頃、ブランショについての修士論文を準備している時に手にした。ガリマール社版の640頁の本を赤鉛筆で線を引きながら、何度も読んでいるうちに装丁が傷んで、表紙も裏表紙も剥がれてしまった。それほど繰り返し頁をめくったのは、きわめて重要なことが書かれていることまではわかったのだけれども、それが何であるかを自分の言葉で言い換えることができなかったからである。しかたがないので、「読書百篇意自ずから通ず」という古諺に従って、本が割けるまで読んだ。そして、一つだけ分かったことがあった。それは「私はこの本の読者に想定されていない」ということであった。別にシニカルな気分になったわけではない。その絶望感はむしろ、「では、ブランショはいったい『誰に向けて』これを書いているのか?」という次数の一つ高い問いに私を導いてくれたからである。
たしかに、ブランショは読者に耐えがたいほどの知的負荷をかける。でも、それは韜晦や衒学ゆえにではない。ブランショは明らかに彼の課す知的負荷が生成的に働くような例外的な読者に向けて書いている。その意味では、ブランショは(その範囲は限定されているが)きわめて教化的な人なのだと思う。
1920年代の中頃、ストラスブールでエマニュエル・レヴィナスは「際立った知性と貴族性の持ち主」である若きブランショと知り合う。ブランショはリトアニアから来たユダヤ人青年に、まずプルーストとヴァレリーを読むことを薦め、フランスの哲学と文学についての「メンター」を買って出た。「彼は私にとってフランスの卓越性(l’excellence française)の体現者でした」とレヴィナスは回顧している。ブランショはレヴィナスが捕虜収容所に収監されている間、パリに残された彼の家族をゲシュタポから匿うという危険を冒した。これと見込んだ相手に対しては徹底的に面倒見のよい人なのである。
しかし、多くの人にとってブランショはつねに「謎の人」であった。ブランショは30年代にシャルル・モーラス率いる王党派の中でも際立って過激な論客として頭角を現した。この時期の青年知識人にとって過激王党派という政治的立場はそれほど意外なものではない。フランスには極左と極右の同志的連帯というものが伝統的に存在したからである。「よく戦うもの」と「戦わないもの」、「尖鋭的なもの」と「凡庸なもの」、「力動的なもの」と「惰性的なもの」の間にこそ真の政治的対立は存するというのはフランスの政治的クリシェの一つであり、30年代のブランショはその突出した宣布者であった。当時のブランショについては王党派の同志だったクロード・ロワがこんな証言をしている。
「そこに一人の透き通るような脆弱な外観をした男がいた。髪は薄く、顔は青ざめ、鼈甲の薄い眼鏡をかけ、色彩の乏しい瞳で、よく通る澄んだ声をしたこの男モーリス・ブランショはモーラスとカフカに関する謎めいて魅惑的で、油断のならないテクストと、自分だけに分かる暗号で印をつけた、難解な物語を書いていた。」
同志たちから見ても、ブランショは何を考えているかさっぱりわからない男だった。当時ブランショが属していた『戦闘(コンバ)』グループは「既成のナショナリスト諸党派と労働者諸政党にそれぞれ幻滅した活動家たち」の、つまり極右と極左の「はぐれもの」たちの寄り合い所帯だった。ナチスのフランス侵入と同時にグループはヴィシー派、対独協力派、共産党に分裂した。行き場を失ったブランショはヴィシーとパリの間を揺れ動き、フランス文学の「黒幕」ジャン・ポーランと対独協力者ドリュ・ラ・ロシェルの二人からそれぞれに後継者として嘱望され、最終的にはレジスタンスに合流した。
たしかに身を処すことの困難な時代ではあっただろうが、同時代人のうちでもこれほど理解しがたい政治的漂流を行った例は珍しい。ブランショ自身はそのつどつねに最も尖鋭で、最も危険な政治運動の前衛に立つつもりでいたと思うが、その真意を理解しえた人はごく少数にとどまっただろう。
この時期のブランショの代表作は『文学はいかにして可能か?』だが、これは占領軍の検閲を免れるために文学論のかたちを借りた政治的パンフレットである。この「自分だけに分かる暗号で印をつけた、難解なテクスト」はかつての『戦闘』の同志たちに訣別を告げると同時に、その後の対独抵抗運動への参加の意志を暗に示したメッセージとして読むことができる。しかし、それはブランショがおのれの複雑な意図を理解して欲しいと望んだごく限られた読者に向けてのみ発信されたものであり、当然ながら、一般読者やドイツ軍の検閲官には決してその真意が理解されないように巧妙に偽装されていた。
自分の意のあるところを理解できるほどに例外的な知性(例えばレヴィナスやポーラン)のためには情理を尽くして発信するけれども、それ以外の読者には理解されないことをむしろ望むという突き放した構えは若きブランショのテクスト戦略を特徴づけていた。それは部分的には彼の気質的な「貴族性」に由来し、部分的には切実な政治的警戒心に由来したものだったが、そのテクスト戦略そのものは戦後のブランショにおいてもついに変わることはなかったと私は思う。
モーリス・ブランショが置かれていた文学と哲学と政治の文脈を熟知していた同時代のフランス知識人にとってさえ「謎めいていた」テクストが、まったく文化的風土を異にする現代日本人にすらすら分かるはずがない。だから、本書を手に取った読者が「まったく理解できない」と天を仰ぐことがあっても、それは少しも恥じることではないと私は思う。その疎隔感はしばしば「ブランショの書くものが理解できるような人間になりたい」というしかたで読者の欲望をはげしく喚起するからである。世界には自分の理解を絶した知的境位が存在するということを思い知らされることを通じてしか人は知的成熟への旅程を歩み始めることはないのである。