『終わりなき対話』(一九六九)は、ほぼ六十年代の重要な論考を収録した評論集である。ブランショの歩みにおいては、『文学空間』、『来るべき書物』に続くものである。
「文学と死への権利」(『火の部分』)は、言語による芸術である文学の本性を問いながら、文学において核心をなすものは、主題や題材ではなく、「作者」の信条・感情の吐露でも倫理性の表出でもなく、言葉そのものが浮き出す動きであり、言語が自らの本質に向かうことである点を、明らかにしようとしている。
『文学空間』のある章は、「オルフェの眼差し」と題されている。伝説的詩人オルフェは、恋人ユリディスを失ったとき、詩歌のもつ能力を駆使して、この女性の理想美を言葉のなかに呼び出し、彼女がみごとに甦り、真に現前し、永遠に生きるよう願う。こうして日の光のもとにみごとに甦ったユリディスに、通常の意味での作品は満足する。しかしオルフェはそれに満足せず、死んだユリディスそのものを欲して、冥界へと降りてゆく。歌の力によって、ついにオルフェは許しを得て、ユリディスを地上へと連れ戻そうとする。だがオルフェは、途中で、どうしてもユリディスをじかに見たいという、性急な思いにかられて、後ろへ振り向く。〈けっしてユリディス自身のほうへ振り返ってはならない〉と禁じる法を侵してしまうのだ。ただちにユリディスは消え、再び冥界に沈む。オルフェは日の光のもとに現前するかのようなユリディスに満足することなく、夜闇に沈んでいるままのユリディスをじかに見ようと欲望するために、ユリディスそのものを失い、彼女を歌った作品もいったん解体してしまう。それゆえまた再び探索せざるをえなくなる。ブランショの考えでは、このような試練を経ることで初めて、作品は──その言語は──自らの発生を気づかい、絶えず由来を考慮する作品(本来的な意味での芸術作品)になる。
本書第三巻「木の橋」などでは、こうした本質的文学作品における言葉の活動が、自らの由来をなす名づけようのないもの、いかなる捕捉もかわして逃げ去るものを絶えず気づかうなかで、断片的なエクリチュールになること、そして、断片的で、中断されるからこそ止むことなく再来する、反復的運動となることが解明されている。そこではまた、絶えず自己(へと現前する)同一性をかわしてずれ動き、逸れていくもの、すなわち「中性的なもの」にかかわる関係はいかなるものかという問いも深められている。
こうした問いかけは、第二巻でも行なわれる。「ニーチェと断片的エクリチュール」は、ドゥルーズを初め、デリダ、フーコー、クロソウスキーなどの論考を精密に読み込んでいるが、また同時にブランショが長年ニーチェを読みつつ熟考してきた「断片性、不連続性、反復性、永遠回帰」の思想を独自に展開している。バタイユ論、フーコー論、精神分析や日常性批判に関する論考なども、射程の長いものであり、弁証法的な問題設定や存在論的な問題設定の枠組みをはみ出す問いかけが繰り広げられる。
第一巻で、ブランショは、これまで探ってきた〈文学的言語〉論の達成を踏まえながら、レヴィナス『全体性と無限』の問いを受け継ぎ、深めようとする。「暗くてわからないもの」──「未知なるもの」、「異邦のもの」──は、もしそれを、言葉の行う媒介作用を素朴に信用しつつ、判明に区切って言述することで、〈意味を付与され、現前するなにか〉としてあらわにすれば、必然的に失われてしまうなにかであり、いわば無媒介性である〈もの〉的次元をなすものに結ばれているなにかである。そうした暗くてわからないものは、まさにそれを否定し、無化させる働きを(一面では、必ず)発揮している言語活動において、どうすれば暗さ=不可解性を保ったまま与えられるのか。暗くてわからないものが、それ自体の不可解性=異邦性のうちに与えられるような言葉づかいはどんな言語活動なのか。
こんな問題意識を抱いていたブランショは、レヴィナスの提起、すなわち他なるものがその他者性を保ったまま与えられるような関係は、視覚的要請に服すことのない言葉における関係──〈他なる人〉と〈私〉との言語活動──においてこそ成立するという思想の提起に注目し、この点をさらに広く探ってゆく。今日的な課題によく応える探究と言える。