長いこと待ち望まれていたモーリス・ブランショの『終わりなき対話』の邦訳がついに刊行されることになった。一九五〇年代から一九六〇年代にかけて書かれた文章のうち、文学の分野のものはすでに『来るべき書物』にまとめられていたが、思想的な文章はこの『終わりなき対話』に集められていた。
今回刊行される第一部「複数性の言葉」では、レヴィナスの『全体性と無限』を手掛かりに、他者との関係を考察しようとする。ブランショはすでに『文学空間』の頃から、レヴィナスの提起した「絶対的な他者」との関係の問題を、「中性的なもの」という観点から考察してきた。この他者との出会いという哲学的にも重要なテーマについてブランショは本書で、人間と人間が出会ったときに可能となるいくつかの道筋を提示しながら考えている。
たとえば、シェイクスピアの『テンペスト』のように、難破して孤島に打ち上げられて、見知らぬ他者に出会ったとしよう。このとき生まれる一つの可能性は、たがいに殺し合うことである。そのとき原理的には「言葉を話すか、あるいは殺すか、それ以外の選択肢はない」からである。
しかしたがいに言葉を話して、会話を始めるならば、殺し合わなくてもすむのであり、そこに新しい可能性が開ける。そのとき、もしも相手もこちらの語ることを理解しようとしてくれれば、殺しあう暴力の道を回避し、たがいに生き延び、助け合う道が開ける。
こうして会話が始まると、話し合う者たちの間には、三つの道が開ける。第一の道は、たがいに相手が誰であるかを確かめあい、相手を利用する道を探る道である。このとき、言葉は認識するための「道具」として使われる。言葉だけではなく、相手もまた、利用すべき手段となるだろう。たがいに利用しあうことができるならば、そこに一つの共同的な関係が構築される。それが普通のあり方だろう。
第二の道は、言葉を他者を制圧する手段として使うことである。言葉は、相手を威嚇し、相手を恐怖させ、完全に服従させるために、そして相手の主体性を打ち砕くために使われるだろう。そのとき本来の意味での人間の「関係」というものは消え失せるだろう。しかしそれなりに平和な、一体的な関係が生まれるに違いない。
第三の道は、言葉をたがいに承認するために使う道である。出会った二人が「相手のうちに、もう一人のわたし自身をみて、相手から自由に承認してもらおうと望む」こともありうるだろう。この道は、片方が主人となり、相手を奴隷にしようとするのでも、たがいに相手を手段として、道具として利用しようとするのでもなく、自由な人格として、相互の承認を求める道となるだろう。
孤島で見知らぬ者たちが出会って会話が始まった時に起こりうるのは、この三つの道のいずれかだろう。そして西洋の伝統的な哲学は、ホッブズの社会契約論から、ヘーゲルの弁証法、そしてハイデガーの存在論にいたるまで、ほぼこうした道筋で人間と人間の関係について、他者について考えてきた。これら三つの道はどれも「われわれ」という地平を築くことを目的としたものである。
しかし人間が他者と向き合ったときに生まれるのは、これらの関係だけではない。人が他者との対話を始めるときに、こうした「われわれ」の世界を構築しようとする伝統的な考察とは違う局面が開かれることがある。ブランショはレヴィナスの著作によって示された「絶対的な他者」の概念を手掛かりにしながら、それまで考察してきた「中性的なもの」という概念をさらに深めることで、この新たな場へと赴くのである。
第二部「限界-経験」と第三部「書物の不在」では、この第一部の考察に導かれながら、ニーチェ、フーコー、カミュ、バタイユなどの哲学的な思考との対話へと、そしてカフカ、ブレヒト、ルネ・シャールなどの文学的な作品との対話へと、「終わりなき対話」の舞台は大きく広がる。第二分冊と第三分冊の続刊を楽しみにしたい。
20世紀文学史上最大の問題作。原著刊行から半世紀をへてようやくその全貌を日本語で読めるようになった。その魅力と奥深さとは──。