モーリス・ブランショの『終わりなき対話』が刊行されたのは一九六九年。ほぼ半世紀の時を経て、この伝説の書の邦訳がいま私たちの元に届けられるのを目の当たりにして、深い感慨に耽るのは私だけではないはずだ。『文学空間』や『来るべき書物』がいち早く刊行されていたにもかかわらず、翻訳大国である日本で、この主著がこれまで訳されなかったことは驚きだが、この遅配には幾つかの理由がある。
単線的に進むことのないテクスト群の内容はきわめて明晰でありながら、いざ翻訳を試みれば、その内容の豊穣さに比例するように、多くの困難に遭遇するのは必至だ。文学的センスはもとより、ギリシャから現代哲学までの該博な知識なしには歯が立たないからだ。フランスで研鑽を積み、文学と哲学の両分野に通暁した新しい世代の研究者たちによる翻訳は、その丁寧な注と解説により、『終わりなき対話』という稀有な作品が要求する学術性と文学性の絶妙なバランスに完璧に応えており、一般読者にアクセスの道を開いてくれる。
時代がようやくブランショに追いついたと思えるもう一つの理由は、その内容に関連するものだ。「終わりなき対話」とは何か。それは、一点への収斂を目指すことも、無理強いすることもない、それでいて、何かへ向けて不断に接近しようとする試みである。ブランショが、書くことを「たえまなきもの、終わりなきもの」への接近としたことはよく知られる通りだが、これはおそらく文学にとどまらない(現在の日本の政治状況に対する痛烈な批判の武器にもなりうるだろう)。人間の試みは多かれ少なかれ、統一性なり一体性へと向けて突き動かされているとはいえ、それと同時に、多様性、複数性、差異性がきわめて重要であるという認識は、いまや多くの人にとって身近なものとなった。本書で展開される主要な問題構成を理解する地盤はこの半世紀の間に着実に整えられたのだ。
いくつかのキーワードがある。まずは本書のタイトルでもある「対話(entretien)」。二人の人物が会話を始めるやいなや、その間にはかならず「間(entre)」が生じ、それがあたかも第三の人物のように機能することになること、そして、二人の対話における差異は止揚されることなく、対話に終わりがないこと、これが出発点だ。さらには、エクリチュール、無神論、中断、中性、反抗、経験といった現在思想において中心をなすテーマが、まさにこの対話の構造の中で展開される。既刊の第一部「複数性の言葉」では、レヴィナスの『全体性と無限』を手掛かりに、他者との関係が縦横に考察されたが、第二部「限界‒経験」では、哲学的考察を中心とする。対話の相手となる思想家は、ギリシャから始まり、キリスト教(パスカル)、シモーヌ・ヴェイユ、カミュ、フロイト、ラカンなど多岐にわたるが、圧巻は何と言ってもニーチェ、そしてバタイユをめぐる部分であろう。これらのテクストはフーコーやドゥルーズに大きな刺激を与えたが、その断片性や対話性は、例えば哲学者ジャン=リュック・ナンシーにも引き継がれており、その波紋は今も広がり続けている。
遅配された『終わりなき対話』。だが、それを開けた時、なんという初々しい相貌だろうか。モーリス・ブランショには「孤高の作家」というイメージが長らくつきまとってきたが、エンターテイメントに徹した文学と、象牙の塔に閉じこもった哲学との間にいかなる架け橋もないように思われる今日の日本でこそ、この本を読むことの意味がある。それは、哲学的思考と文学的エクリチュールを弁証法的に接続するためではなく、むしろ、その分化の手前に立ち戻るためだ。時間が熟成をもたらすこと、時間的にも空間的にも即座に繋がらないことの重要性について私たちはあらためて思いを巡らせるべきだし、amazonの即日配達の異常さに気づくべきなのだ。ほとんどタイムカプセルのように届けられたこの本を読む幸福を多くの人と分かち合いたいと思う。