†試行調査の実施
2017年11月に「大学入学共通テスト」を想定した「試行調査(プレテスト)」が実施されました。参加校は約1900校、高校2年生以上で「国語」はおよそ6万5000人が受験しました。記述式とマークシート式の問題は「国語」(100分)と「数学Ⅰ・数学A」(70分)、マークシート式の問題のみが「世界史B」「日本史B」「地理B」「現代社会」、「数学Ⅱ・数学B」、「物理」「化学」「生物」「地学」(すべて60分)となったのです。
その趣旨について大学入試センターは実施の前月に、「新しいテストの問題構成や内容等を決定していくにあたっては、あらかじめ、探究の過程等をより重視した新たなねらいの問題を出題した場合の正答率や傾向等を分析しておく必要があります」と発表し、今後の「分析」に用いるためと言っています。したがって、「試行調査で出題される問題は、あくまでも検証のためのものであり、今回の問題構成や内容がかならずしもそのまま平成32年度からの大学入学共通テストに受け継がれるものではない」ということです。
この断り書きがあるのですから、これが見本だというのではないのでしょう。しかし、基本の大枠はこの見本をもとにするだろうし、そうならざるを得ないことは誰しも分かっています。同じではないという身ぶりをした上で、最後にこう言っています。
果たしてその自負はあたっているでしょうか。
問題冊子は、センター試験などと同じような判型の印刷物となっていました。なかでも「国語」は全部で52ページに及ぶ大部のものとなっています。2018年1月に実施されたセンター試験の「国語」の問題冊子が46ページでしたから、6ページほどボリュームが多かったのが分かります。ここでは記述式問題が第1問となっていて、第2問からはマークシート式問題となっています。この第2問には評論・論文形式の問題文が使用され、第3問は小説からの出題となりました。第4問が古文、第5問が漢文の出題となっていました。一般的に、センター試験の「国語」の場合、大きな問題数は四つ、現代文が二問、古文・漢文で各一問でしたから、単純に記述式問題の分が純増になっています。
設問ごとの解答数でいくと、第1問の記述式は三つ、第2問が六つ、第3問が10、第4問が六つ、第5問が10になっていて、合計35問ということになります。2018年のセンター試験では現代文から出題があった第1問と第2問で20の解答が求められ、古文の第3問が八つ、漢文の第4問がやはり八つで、合計36の解答をマークすることになっていました。解答数は一つ違いなのですが、記述式が加わりましたから単純比較はできません。手間がかかることを想定して、試験時間は80分から100分に延びています。しかし、実際の問題を見ると格段にややこしくなっていることは確かです。
†増大する問題量
言うまでもありませんが、「国語」でいちばん大変なのは、問題文をきちんと把握することです。設問数や解答数が同じだとしても、種類の異なる問題文をあちこち読んでいかなければならないとなると、それだけ時間をとられます。資料複合型の問題文を作成することがどうやら課題となっているところから、問題文の分量がそれまでとは比べものにならないほど、増えてしまっているのです。記述式のサンプルのときに指摘したように、増えた資料にはムダな情報も多く含まれています。ムダな情報と意味のある情報を見分ける能力を鍛えるというわけですが、その目的自体は正しくても、実際に試験問題に組み入れたとき、受験生は大量の情報を読み込んで、瞬時にそれらを判別しなければならないという課題を負うことになります。
野球の千本ノックではないですが、ボールの動きを一瞬で見分けて、打球の速さや方向、転がり方を判断して、すばやいダッシュとともに捕球の体勢をつくる。そういう訓練をくりかえすことで身体に守備の動きを覚えさせる。確かにそれにも一理あるのですが、しかし、「大学入学共通テスト」でそうしたトレーニングが必要なのでしょうか。それは瞬間的に見分ける能力を鍛えることにはなるかもしれません。しかし、「思考力・判断力・表現力」の育成にはつながらないのではないでしょうか。
ちなみに今年のセンター試験の問題文を見ると、第1問は有元典文・岡部大介『デザインド・リアリティ──集合的達成の心理学』から、第2問は井上荒野の小説「キュウリいろいろ」から、第3問の古文は本居宣長『石上私淑言』から、第4問の漢文は李燾『続資治通鑑長編』から出題されていました。四種類の問題文を読むことが課されました。
最後の漢文などは、かなり難解なもので、出題範囲である「国語総合」のレベルでは到底あり得ない文章を出しています。本居宣長の『石上私淑言』についても、果たして「国語総合」に載るレベルかというと疑問です。しかし、センター試験では「国語総合」の内容を出題範囲とするという建前が掲げられています。実際にはその出題範囲だけを守ったなら、得点のバラツキが起きなくなってしまうために、作成する側も受験する側も、そして受験生を指導する高校・予備校関係者も、その建前を共有して、くい違いがあっても目くじらを立てないという前提で行われていました。ところが、サンプルやプレテストを見るかぎり「大学入学共通テスト」では、それが一変します。五つの大問それぞれが複雑な組み立てになっていて、読まなければならない資料が考えられないほど増えてしまいました。複雑さにおいてプレテストは、いまのセンター試験のはるかに上を行っています。
†規約をめぐる議論
では、実際にプレテストの記述式問題の第1問から見ていきましょう。今度の出題は、架空の高校の生徒会をめぐる話題となっています。
これがまず、第1問のリード文です。
問題文は五種類の文章から構成されています。最初が「生徒会部活動規約」で、その第1条から第16条までが掲載されています。二つ目が、執行部会でくりひろげられる【会話文】です。四人の生徒と一人の教員が参加しています。三つ目が、【資料①】「部活動に関する生徒会への主な要望」の集計結果をまとめた表です。四つ目が、【資料②】「市内5校の部活動の終了時間」を調査してまとめた表になっています。そして最後が、【資料③】「青原高校新聞」記事にあたります。こうした五種類の異なる形式の文章や表を統合させながら、「構造化」することを求めた問題文になっているのです。設問数がわずか三つなのに、五種類の文章を読みこなすというのはかなりハードルの高い試験です。
まず、最初の資料として掲げられる「生徒会部活動規約」を見てみましょう。
第1章 総則
副委員長 生徒会本部役員のうちから1名
体育部代表 体育部の部長のうちから1名
文化部代表 文化部の部長のうちから1名
第2章 部の運営
第3章 部の新設・休部・廃部
第4章 同好会(以下略)
これがまずこの高校における生徒会部活動のルールであるというわけです。サンプル問題例のときにも指摘しましたが、記述式問題の導入は、これまで自治体の「景観保護の方針」をめぐる公文書や駐車場管理会社と借主のあいだで交わす契約書といった社会的な関係を前提にしたものを取り入れていました。ここでも重視されるのは「規約」です。
†錯綜する資料
次に生徒会執行部と教員一名による【会話文】が掲げられます。
登場する人物
島崎──委員長。剣道部部長。
森 ──副委員長。生徒会副会長。新聞部部長。
永井──体育部代表。バドミントン部部長。
寺田──文化部代表。書道部部長。
夏目──教諭。生徒会顧問。
これだけ読むのでもけっこう時間が取られます。しかし、資料がまだまだ続きます。【資料①】、【資料②】、【資料③】というデータが並べられ、それらがこの会話のなかで言及されているものにあたるのです。
先日、新聞部が実施した「青高アンケート」(七月十五日実施)の結果によると、学校側への要望で、最も多かったものは「部活動の充実」、二番目は「学校行事の改善」であった。
「部活動の充実」の内訳では、「部活動の終了時間の延長」という回答が最も多かった。これは、秋の新人戦・作品展に向けた練習・準備が活発化する中、近隣高校に比べて活動時間が短い、という思いの表れであろう。
硬式野球部主将の中野さんは、「青原高校の生徒は、部活動があるからといって学業をおろそかにするとは考えられない」と語る。また、吹奏楽部部長の樋口さんは、「部活動を一生懸命やりたい後輩は、白鳥総合高校を目指してしまうから、ぜひ部活動の終了時間を延長してほしい」と訴えた。
しかし、部活動の終了時間の延長の実現には課題もある。青原市作成の「通学路安全マップ」によれば、本校の通学路は、歩道も確保できないほど道幅が狭い。また、交通量のピークは午前七時前後と午後六時前後とされている。生徒指導担当の織田先生は、「部活動の終了時間の延長を認めた場合、生徒の下校が集中する時間帯の安全確保に問題が生じるのではないか」と語っている。
†積みあげられるデータ
ご覧のように、合計五種類の問題文や資料を読みこなさなければなりません。このあとのマークシート式の問題も複雑化していますから、この第1問に受験生が割ける時間は、試験時間を増やした20分間あるとは言いがたく、15分程度でしょう。そのあいだに五種類を通読し、設問に答えて、記述の解答を清書しなければならないのです。読者のみなさんなら可能ですか。
初めてこの試験に直面したら面食らうことでしょう。実際の設問にたどりつく前に、プレッシャーから頭が混乱するかもしれません。一般的に入学試験の問題はこれまでも分量が多いことは指摘されていました。しかし、受験生たちにとっては、このようなことはお茶の子さいさい。そのようなものだと了解しているし、さっと問題文を流し読みしながら、設問を見て、選択肢を見て、瞬時に解答をはじき出す、そういうふうに訓練されてきました。しかし、それでは「思考力・判断力・表現力」が身につかないという批判があって、このような改革になってきたはずです。ところが、いざ新テストを目指したら、改善どころか、かえって分量が増えてしまったのです。どうにも合点がいきかねます。
†平易すぎる問い
ようやく設問をチェックする段階になりました。最初の設問は以下の通りです。
森という生徒が「ダンス部の設立」をまず議案にあげようとしたとき、島崎委員長はこれを「議題にならない」と制止しました。「規約どおりに進める」ことが必須だからです。となれば、その「規約」に答えは隠されています。「生徒会部活動規約」には第3章に「部の新設」を書いた条文がありました。その第12条に「同好会として3年以上活動している」ことが第一条件とされています。つづいて第13条にはこの「条件を満たし、部として新設を希望する同好会は、当該年度の4月第2週までに、所定の様式に必要事項を記入し、生徒会部活動委員会に提出する」とあり、これが申請手続きとなります。第14条にはさらにこの提案が「生徒総会」において「過半数の賛成」を要するとあり、一連の流れがまとめられています。これをコンパクトに整理すればいいわけです。
発表された正答例は「同好会として3年以上活動した上で、4月第2週までに所定の様式で生徒会部活動委員会に申請すること。(四十八字)」となっていました。そこには「正答の条件」があります。
というように四つの条件が示されていました。この条件がいくつ揃って記述されているかによって採点する仕組みです。
会話文のやりとりから質問がなされているのですが、別な資料に解答のヒントがあるようになっています。このように、資料をまたぐというところに新しさがあるのですが、逆に明確に正しい答えを導く要素がちりばめられていないと設問にはなりません。しかも、記述式の場合、複数の要素を組み合わせることが重要なので、分かりやすく明快に答えが導き出されなければならないのです。
†正答率と得点効果
これまで「国語」の試験問題で、選択肢問題はだいたい四つから五つの選択肢を用意して答える形式になります。したがって、四つの選択肢であれば25%の確率で、偶然に正答を選ぶ受験生も出てきてしまいます。たしかに、これではほんとうの学力を測るには誤差があります。ただ、すべての設問で偶然に正答にたどりつく確率は低いでしょう。一つの設問において偶然、正答にたどりついたとしても、設問数が一定の数以上あれば、誤差による偏りは小さくなります。だから30問以上の設問が用意されているのです。
四条件のうち、文字数をべつにすれば三つの条件を組み合わせて作文できるかどうかが、この記述式の設問の眼目でした。実はそれは選択肢を作る場合でも同じです。マークシート式であれ、記述式であれ、採点するとなれば同じ構造にならざるを得ないのです。とすると、自分の頭で考えて文章を作ることができるかどうか、そこだけが問われていると言えます。
果たして、この問いを記述式にすることに意義はあるのでしょうか。2018年の3月26日に大学入試センターは「大学入学共通テストの導入に向けた試行調査(プレテスト)(平成29年11月実施分)の結果報告」を発表し、そこでこの記述式問題の採点結果を出しました。それによると、この問1の正答率は次のようになっていました。
条件①〜④のすべてを満たす(完全正答) | 43.7% |
字数の条件だけ満たさず、他の三条件は満たす | 2.2% |
字数の条件を満たし、他の三条件中二条件は満たす | 32.2% |
字数の条件を満たし、他の三条件中一条件は満たす | 14.1% |
上記以外の解答 | 5.4% |
無解答 | 2.3% |
完全正答は43.7%でした。これを満点として、字数だけ守れなかったものと、二条件は満たしたもの、一条件を満たしたものに、減点しながら得点を決めていったのでしょう。選択肢問題が満点か零点かのどちらかになるのに比べれば、たとえば3点、2点、1点、零点と得点差ができるのはいいことです。しかし、受験生の八割近くが3点から1点までに集中するとなると、この設問に的確に答えることができたその得点の効果はそれほど大きくないということにもなります。
†穴埋め式の記述
問2は空欄穴埋めの問題です。
これが設問です。本文で、空欄アがあるのは、「兼部規定の見直し」をめぐる会話文の議論のなかでした。こんなくだりです。
「兼部」についての情報を、それまでの資料のなかから探さなければなりません。まず確認するのはやはり「生徒会部活動規約」です。その第8条に「原則として、一人の会員が複数の部に所属すること(兼部)は禁止する。ただし、体育部と文化部との兼部については、双方の顧問の了解が得られれば可能とする。」とあり、禁止と可能な条件が書き込まれていました。そして「体育部と文化部」をまたいだ兼部については「顧問の了解」のもとに許可されると書かれています。会話文の空欄アの前後に目をやれば、「あくまで双方の顧問の許可があることを前提」にして、さらに条件の緩和が提唱されています。とすれば「体育部」と「文化部」をまたぐのではなく、それぞれのなかで複数の部活動に参加することが要望されているのだと類推できます。
大学入試センターによる正答例は複数出されています。
同じことを指し示す言い回しは何通りかありますから、そのフレキシビリティを認めるのは当然のことです。その上でやはりいくつかの条件が課されます。
以上の三条件がすべて満たされていなければなりません。さらに「なお、体育部・文化部の一方に限定したもの(例:「文化部について兼部を認める」)は正答としない」という但し書きがついていました。
二十五字以内という少ない文字数でもあり、この問2はかなり平易だといえます。必要な箇所をみつけて、現在の「規約」で「兼部」の可能な範囲を考え、それを消去すれば要望されている内容を推定することはできるでしょう。表現がスムーズに行くかどうかだけが問われるところになります。同じように公表された問2の正答率を見てみましょう。
条件①〜③のすべてを満たす(完全正答) | 73.5% |
条件①と③、あるいは②と③のみ満たす | 0.0% |
条件③のみ満たす | 0.0% |
上記以外の解答 | 23.4% |
無解答 | 3.0% |
圧倒的に正答を書いたものが多かったわけです。それはそうでしょう。クイズのような設問です。もちろん、これにも答えられなかった25%近い高校生をどのように教育するのかは、大きな課題です。しかし、これだけ正答率が高いということは試験の質がよくないことを端的に表しています。問題文の種類は多く、読むのにかかる時間は取られる。それでいて設問は易しすぎることになっているのです。さて、やっかいなのは問3です。
†要素を組み合わせる
記述式問題の問3は、前に見たモデル問題例にもあったように、いくつかの条件に即して解答を作らせる形式の設問になっています。
空欄イは「部活動の終了時間の延長」をめぐる議論の箇所にはさまれていました。時間延長については、多くの要望が生徒からあり、会話文の参加者も同様の発言をしています。周辺の「市内五校」の終了時間の調査もあり、延長は可能ではないかと議論が進みました。そこで「ちょっと待ってください」という森の発言が入り、検討する「課題」がさらにあると指摘がなされます。そこに空欄イがきて、島崎委員長の「なるほど」という同意がなされるのです。延長をよしとしよう、しかし、こういう問題が発生する危険性がある、そうした要素を組み合わせて正答を作ることができればいいわけです。
センターが提示した正答がこれです。
延長への賛成の「根拠」となるのは生徒たちからの要望であり、他校との比較です。 「しかし」以下は、【資料③】の後半にある「生徒指導担当の織田先生」の指摘を組み入れています。しかし、これは【資料③】にそのまま書いてあることです。問われるのは、正確に要素を組み合わせて文章にすることができるかどうか、それだけなのでしょうか。
†正答の条件
正答例の条件は、「次の条件をすべて満たして解答している」こととした上で、次のようになっていました。
要素の条件はかなり細かくなっています。それらを組み合わせれば一見、正答にたどりつくように思われますが、果たしてここまでいけるかどうか、はなはだ疑問です。五種類の資料を読み込んで、そこからこの設問に関連する情報を取捨選択し、必要な情報を組み合わせて正答を作る、これにはかなりの時間と訓練とが不可欠です。新しい「学習指導要領」ではそうした教育を行うから大丈夫だと言うのでしょうか。これまでこうした複数の資料の読み方や、組み合わせて考えるという学習を生徒たちはそれほどしてきていません。おそらく、そうしたことに取り組んできたのは、一部の私立高校で、卒業論文や課題発表を授業に組み入れたりしてきたユニークな学校くらいでしょう。生徒だけではありません。教師たちもそのような授業方法を身につけてきてはいません。だから、アクティブ・ラーニングなのだというのが、改革案の設計者たちの主張です。しかし、新規なことを強制的にやらせていく過程で、どれだけ多くの人たちが身につけることのむずかしい方法や技術に振り回されるか、そうした想像が欠けているように思われます。
なかでも、正答例で示された④のⅱの要素、「延長は認められにくい」を入れてあることというのは、そのとおりの言葉でなければならないのでしょうか。たとえば「安全面の危惧を指摘される可能性が高い」というような書き方でもいいはずです。「延長に反対する先生が出てくる」もあり得ます。これに対して「延長は認められにくい」という言い方は、学校側の反応を予測した点で同じような言葉に見えますが、想定した事実を伝えるよりも予防的、抑制的なニュアンスを伝える言葉です。いわゆる「忖度」にあふれた言葉だと言ってもいいでしょう。会話文の最初の方で「ダンス部の新設」を提案し、「規約」に沿っていないとたしなめられた、いささか軽いノリの森くんらしからぬ空気を読んで配慮に満ちた発言となっています。
†失敗した設問
実際の正答率はどうだったでしょうか。
条件①〜④のすべてを満たす(完全正答) | 0.7% |
条件①または②だけを満たさず、その他は満たす | 0.1% |
条件③または④だけを満たす | 0.0% |
条件③または④だけを満たさず、その他は満たす | 11.1% |
上記以外の解答 | 81.6% |
無解答 | 6.6% |
これはまたみごとに出題の失敗を突きつけられました。81.6%の受験生は、この設問が何を問うているのかを把握することができず、作成者が求めていた解答とはまったく違う解答を書いたのです。多少なりとも点を得ることができたのは、全体の11.9%に過ぎません。他の全員がこの設問について零点となったのです。
ほんとうに生徒の「思考力・判断力・表現力」が問われるとしたら、この架空の高校の生徒会部活動委員会の執行部が延長問題にぶつかって、「それでは、どのように提案していけばいいか、みんなで考えましょう」と島崎委員長が発言したその後のことではないでしょうか。延長の希望と、安全面の考慮という矛盾をどう解きほぐすのか。答えのない問いにぶつかるから、初めて思考力が試されます。自由な発想や突飛なアイデアが突破口になるのもそのときです。「創造的に思考」することは「論理国語」に課されていたテーマでした。しかし、この記述式問題で問われているのは、複数の資料をまたいで、あちこちにちらばっている情報をひとまず集約する能力ではあるが、「創造的」な能力ではなかったのです。
†情報の取捨選択
情報の集約は確かに必要な能力の一つです。しかし、情報の集約はつねに現状の分析に終始します。エビデンスを示すことは重要ですが、それだけでは背景にある現実を動かすことは視野の外に追い出されてしまいます。この青原高等学校では、「生徒会部活動規約」が一種の「法」として機能しています。この「法」のもとに動かしていかなければならない、それが会話に参加しているメンバーの前提です。それはサンプル問題のときの城見市の「ガイドライン」と同じです。駐車場管理会社の契約書の場合は、業者と個人のあいだで結ばれます。これを約束した以上はそのルールに従わなければなりません。ただ、ルールの変更もありうる設定になっていて、その手続きが議論されますが、公共的に機能する社会的な「法」や「契約」の順守という前提は崩れていないのです。
果たして「国語」という教科は、社会的な「法」や「契約」をめぐる道徳や手続きを教えるものだったのでしょうか。記述式問題をめぐる見本が、サンプル問題の二問、プレテストの一問と、これまで公表された三問がいずれも同じ傾向をもつということをどう解釈したらいいのでしょうか。さまざまな記述式問題が想定できると思います。しかし、大学入試センターの提示した見本は、いずれも同一傾向、同一主題の方向に動いていました。論理的な思考や創造的な発想を問うというよりは、複雑な情報のなかから必要な情報を取捨選択することばかりを求めていたのです。
†作成者のイデオロギー
サンプル問題の一つは、景観保護によって行われる制約と住民の自由意志が対立的にとらえられ、公共による制約を優位に置いた上で、自由を生かす補助金の獲得へと促していました。いま一つは、民間企業による不当な運用に対しては、個人が契約書を盾に主張することの必要を唱えていました。プレテストでは、高校の生徒会を舞台に、生徒の要望と安全面の指導を対立させ、後者の重要性を指摘するところで終わっています。サンプル問題の二つ目が多少は異質に見えますが、これは民間業者と個人という「私」と「私」のあいだでの交渉を扱っているからで、その間で交わされる「契約」の絶対性は揺るぎません。
はしなくも、これらの複数の記述式問題は、作成者の思想(イデオロギー)を照らし出しているように思えます。それは現在の日本の政治・経済・社会によって規定されている「公共」の概念を絶対条件として受け入れようという意思です。しかし、言葉を学ぶということは、その範囲にとどまることではありません。「法」や「契約」といった社会的公共性を重視した著者のテクストを教材として掲載することに、──それが優れたテクストであるかぎりにおいて反対はしません。そのような考えの表明は重要です。しかし、社会的公共性はつねに歴史的なものであり、変化していくものでもあります。欠点もあるし、偏りもある。だから、そうした偏りある社会に合わせて生きることがつらい人々もいるでしょうし、軋轢も生じうるのです。そうした異なる考えがあることを表明し、意見をたたかわせることができて、初めて「社会に開かれた」教育になるはずです。しかし、無署名であることは作成者の「無意識」を鉄の意思として示すことなのです。それはみずからを「公共性」の代表とし、全体に従うように表明することに等しいのではないでしょうか。
「国語」という教科は、「数学」や「英語」、「日本史」「世界史」「地理」などの地理歴史科、あるいは理科の各教科とも大きく異なっています。なぜ、国語の教科書は教材集という形態をとり、署名のある書き手たちのアンソロジーであったのか。そのことがあまりにも安易に忘れられているように思えてなりません。