金田淳子

round.4 『キャプテン・マーベル』

漫画・アニメ・小説・ゲーム……さまざまな文化表象に、萌えジャージにBLTシャツの粋なフェミニストが両手ぶらりで挑みます。うなれ、必殺クロスカウンター!! (バナーイラスト・題字:竹内佐千子)

 私は猫が好きだ。生きているナマの猫が一番好きだが、おキャット様(※カレー沢薫メシア提唱の、猫の呼称)が、残念ながら自宅に居ないため、画像や映像で補給することによって、辛くも生き延びている感がある。
 そんな私が、「すげぇ猫映画ですよ」「シリーズ作品を見なくてもわかりますよ」という情報を目にしたので、『キャプテン・マーベル』(監督&脚本:アンナ・ボーデン&ライアン・フレック)を観た。

 実は、私は「アベンジャーズ」シリーズを見たことがない。この映画が、何のシリーズの一部なのかも、最後に出てくる計画書でやっと知ったぐらいだ。なんか……アメコミが原作の……バットマンとかの(混ざっている)……超能力で戦うやつ? と思っていた。映画が始まる前の、マーベルコミックスのロゴで出てくるご老人についても、「誰だよ」と思ったし、いまだに誰だったのか断言する自信がない。そもそも映画や芸能人について「三歳児?」と言われても仕方ないほど無知なので、サミュエル・ジャクソンが出てきたときに、特に重要人物だとは思わなかった。

 つまり今回、ほぼ完全なる未知との遭遇、ノーガードの「両手ぶらり旅」が決行されたのだ。

 自信を持って言えるが、「シリーズをずっと見てきたからこそ楽しめる要素」は、一つたりとも拾うことができていない。そこにあるのに私には見えていなかった、という心霊的な要素が、おそらく一万個以上あると思う。しかし「話が全くわからない」「疎外感で死んじゃう」ということはなく、映画として楽しむことができた。
 ちなみにこの「楽しむことができた」は、「KING OF PRISM」シリーズや「HiGH&LOW」シリーズの、「あっ、大丈夫ですよ、全部見てきた私たちも、わかってないんで」という独特なやつではなく、物語やシナリオが手堅くできているために、初見でもわかる、というやつだ。

※この先、ネタバレがあります。完全な両手ぶらりで『キャプテン・マーベル』を楽しみたいという方は、ぜひ、鑑賞後に読んでください。








 さて、ここでまた無知をさらけだすが、私は「キャプテン・マーベル」という称号を冠された人を、「キャプテン・アメリカ」(もちろん未見)と混同して、男性だと思っていた。
 しかしこの映画は、「『キャプテン』と言われると、自動的に男性を思い浮かべてしまう」というような、男性中心社会を構成するジェンダー意識を、フォトンブラストでブッ飛ばす物語だった。

 主要な女性キャラクターが三人いるが、みな戦闘力や知能に優れ、前向きで、行動力がある。それだけならば特に珍しくないが、この映画で私が評価したい点が四つある。

 一点目は、スポーツや軍事の分野で、女性が男性よりも戦闘力が劣るために、常に出しゃばるなと牽制され、二流の地位に置かれてきたことと、それに対する強烈な悔しさがしっかりと描かれていること。つまり、男女が対等に扱われているという非現実的な世界観(または女性しかいないという特殊状況)で強い女性が描かれるのではなく、「男女差別が存在する」という前提をふまえて、どのようにして女性は強くなれるのか、何が原因で強くなれないのか、という問題意識が存在するのだ。

 二点目は、一点目と密接に関係する。ヒロインは空軍に所属していた頃と同様に、スターフォース部隊でも、指導役の男性より戦闘力が劣る。しかしそれは人工的に制御されていたせいだ、という設定が存在する。
 比喩的な次元に留まってはいるとはいえ、「現状の男女の処遇の差は、男女差別ではなく、男女に生物学的な能力の差があるから、区別しているだけだ」という言説に対する、明確なカウンターだと思う。男性が男性有利に作ったルールの中で、女性が戦おうとすることは、人工的な制御装置、重石を付けられているのと同じことだから、ルールを変えなければならないという、フェミニストがながらく主張してきたことと響きあっている。ヒロインが制御を外され、途方もないパワーをほとばしらせるシーンは、『アナと雪の女王』でエルサが力を解放した場面を思い出すような、解放のカタルシスがある。

 三点目は、師弟関係や友情という女性たちの絆が、ヒロインを動かす重要な推進力として、魅力的に描かれていること。付け加えれば、男女の恋愛感情が全く描かれないこと。恋愛がメインテーマならともかく、そうでもない作品で「男と女がいるとつい、恋愛関係を設定しまう」「女性キャラクターの動機をつい恋愛にしてしまう」という、異性愛中心的な安易な「手癖」があると、それだけで興ざめしてしまう私にとっては、このような作品は嬉しい。かといって男女がいがみあう世界観だ、というわけではなく、男女の友情もしっかり描かれている。ちなみに、もし二次創作するなら、アリス×キャロル(リバ)、グース×フューリーで描きたい。

 四点目は、ヒロインがバトルスーツを着て多彩なアクションを行うが、「下から股間を見上げるカメラワーク」「なぜか大きく開かれた胸元」などの、「さあ、女体をたっぷりお楽しみください」というサービスが存在しないこと。もちろん、作品によっては大人の男体や女体を性的客体として描くサービスはあっていいし、それが主目的の作品も歓迎だ。しかしこの作品のように、「男性有利のルールを打破する」というフェミニズム的な問題意識を提示している作品でそれをやってしまうと、よほどの自己批判精神やどんでん返しが明示されない限り、お前の問題意識はその程度かと言われても仕方がないと思う。

 以上のように、「男性が主人公で、女性は補佐役割&パンチラ要員」「ちょっと目を離すと男と女が恋愛関係になっている」という作品に食傷している人にとっては、なかなか痛快な一作だと思う。

 一方で、「お前それでいいのか?」と思う部分も、残念ながら、ある。
 一点目は、ルールの変更について示唆的な設定があるものの、優れた女性が努力を重ね、潜在的才能を開花させるという筋書きは、成果主義、新自由主義と親和性が強いこと。
 二点目は、「戦争を終わらせる」ことが目的だとうたってはいるものの、同時に、実在の軍隊(アメリカ空軍)への憧れが肯定されていること。どういう理路でこのふたつが矛盾なく両立するのか、私にはいまひとつわからない。
 三点目は、宇宙の難民たちについて、地球に永住してもらう方法を熟慮するのではなく、彼女ら/彼らが住むための新しい星を探すという方針を即決していたこと。あまりにも説明がなかったので、このシーンを見たときは素で「マジかよ」と声が出た。
 これらの論点は、リベラル・フェミニズムが究極的に行きついてしまうかもしれない、「戦争(殺人)や搾取をする権利を女性にも与えよ」という主張の是非に関わってくる。もしこれを肯定してしまうのであれば、主張として一貫性はあると思う。

 少し事情を想像してみると、一点目については、そもそもバトルアクションヒロイン/ヒーローもので、「毛ほども輝かずに終わったが、それもありだぜ!」という筋書きは、高度な批評性が試されるから、ギャグ作品以外ではなかなか難しいとは思う(もしそのような作品があるなら教えてほしい)。二時間程度のエンターテインメント映画にあまり多くを求めるのは無理があるし、もともと長大なメディアミックスなので、二、三点目についても、他の作品で納得のいく説明があるのかもしれない。

 このように100点満点とはいかなかった『キャプテン・マーベル』だが、二時間以上、飽きずに楽しんで見ることができた。そのうえ、私はこれまで全く手をつけられなかった「アベンジャーズ」シリーズを、全部見てみようという気持ちになっている。
 その意味では、私はこの作品に完全にノックアウトされてしまったと言える。

 メインキャラが皆、魅力的なのだが、私に必殺のパンチを食らわせたMVP、ならぬMVCは、やはり猫の「グース」だ。猫の登場するフィクション作品について、必要以上に評価が辛口になりがちな私だが、おキャット様の出番がそれほど多くない映画としては、かなりの満足度があった。ぜひ、猫好きの皆さんにもお薦めしたい。なお、スタッフロールが終わるまでちゃんと見ないと後悔するぞ。