溝口 榎田ユウリさんは「宮廷神官物語」シリーズや「カブキブ!」、「妖琦庵夜話」シリーズなど一般文芸でも既に活躍されていますが、榎田尤利名義で書かれたBLでは百冊を超える著作を持つ押しも押されもせぬ第一人者です。今回、初めて筑摩書房から刊行される『この春、とうに死んでるあなたを探して』は一般文芸に分類されるものですが、彼女が二つのジャンルで培ってきたテーマ、テクニックがふんだんに詰め込まれた一種集大成的な作品とも言えるでしょう。なので、今日は『この春』の読みどころを紹介しつつ、榎田さんのBLがどのような流れを経て進化してきたかを追うことで、ジャンルの壁を越える榎田ワールドの魅力を話せればと思います。
金田 たぶん小説を読まれる方で「BL」というだけで、チョイスから外してしまう方はいるかもしれないなと思うんですが、榎田さんの場合はBLのデビュー作である「魚住くん」シリーズが、のちに角川文庫から岩本ナオさんの表紙で出し直されて、ふつうにヒットしているんですよね。
溝口 角川文庫で一巻が出たときに、いちおう帯に「BLの伝説的名作」と小さく入れて、元はBL作品だということがわかるようになっていましたが、数多くの一般読者に受け入られたようです。男性同性愛要素への苦情もなかったとか。
金田 同じくBLの人気作家である木原音瀬さんにしても、BLがそのまま講談社文庫で出し直されて、より多くの読者を得ています。
溝口 だから、もういまの感覚だと、BLにもこんなに傑作があるのに偏見から読まないのはもったいないとかではなくて、BL小説のトップランナーが一般文芸に新たな風を吹き込むのを素直に楽しむという状況ではないかと思います。
金田 なるほど、確かにBLに偏見があるというより、どれを読めばいいかわからない人が多くて、一般書として出されれば手に取ってみる、という段階なのかもしれませんね。
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溝口 榎田さんは『小説JUNE』で中島梓さんがやっていた「小説道場」の最後の方で投稿が取り上げられて、二〇〇〇年に光風社から「魚住くん」シリーズ一巻『夏の塩』を刊行します。二〇〇三年から「ヴァムピール・アリトス」シリーズでライトノベル(角川ビーンズ文庫)に進出、以降、BL、一般文芸を問わず活躍されていて、膨大な作品があるわけですが、榎田さんの特徴は、BLのデビュー作「魚住くん」シリーズ、中期の人気作品「交渉人」シリーズ、そして今回のような一般文芸ものという大きく三つに分けて考えられると思います。
一般の方はBLというとイケメン二人が「攻」と「受」に分かれてイチャイチャするというのをイメージされると思います。それもひとつの正解ですが、榎田さんがデビューされた『小説JUNE』、およびその影響下にある作品の特徴として重要なのは、「傷ついた子供が愛によって癒される」ということなんです。これは遡れば「二四年組」の少女マンガの特徴のひとつでもあるんですが、加えて言うと、癒しが血縁で結びついたのではない疑似家族によって行われることも特徴的です。逆に多くの場合、彼らを傷つけるのは実の家族なんですね。
また、榎田さんは人間が矛盾を抱えている存在であることをよく書かれています。暴力や死に近接するがゆえに、愛や生をこいねがう、それを「攻」キャラと「受」キャラとの間の性愛をふくめた恋愛で解消するのがBLの定番ですが、それだけではなく、友情なのか、保護欲なのか、いろんな愛のかたちが書かれていて、それは三つのシリーズに共通するポイントだと思います。
金田 そうですね。榎田さんの作品をすべて読んでいるわけではないのですが、『この春』は「魚住くん」シリーズにいちばん近いように感じました。『活字倶楽部』二〇〇九年十二月号のインタビューで、BLにせよラノベにせよ「(魚住くん以来)自分の書きたいことはあまり変わっていない」と言われていますね。なにが同じなのかははっきり言葉にできないとおっしゃっているんですが、実の家族に恵まれなかったひとが疑似家族によって救われる、それも「攻」との恋愛だけでなく群像劇的にさまざまなひとたちとの関わりによって癒されるという部分が、「魚住くん」などの作品に特徴的だと思います。
溝口 最初の投稿作「夏の塩」について、「小説道場」の道場主(選者)の中島梓がJUNE小説として高く評価しながらも、「JUNEでなくてもいい、文学へいってしまえる地点に立って」いる作品だと述べています。主人公の魚住と久留米の二人だけでなく、インド人とイギリス人の混血の留学生サリームやマリちゃんという脇役がきちんと書かれているんですよね。
「スーパー攻様」と腕っ節は弱いけど弁の立つ「受」というザ・BL的な作品である「交渉人」シリーズでも、読み直してみると、二人以外のところの群像劇がしっかり書かれています。事務所のアシスタントのキヨくんだったり、さゆりさんという「おばあちゃん」事務員などのキャラが立っていて、下町の空気感もリアルに書かれている。
金田 絵空事に感じさせない、庶民的なところのある生活感を書くのは、どの作品でもうまいですよね。
溝口 「交渉人」シリーズは、あおり文句に「あんたは……俺のオンナにふさわしい」とあるように(笑)、ド直球のBLエンターテインメントとして書かれているんですけど、そういう作品でも主人公二人以外の人々も持ち駒的ではなくそれぞれが複雑な人間として描かれているし、男同士の性愛の成就が当然の前提ではありつつも、いきなりレイプして当然みたいなことは起こっていない。
金田 絶妙なバランス感覚ですよね。
溝口 ただ榎田さんはセルフプロデュースも巧みな非常に聡明な作家さんなんですけど、創作のスイッチが入ると、プロデューサー目線がなくなってクリエーター本能が全開になるようで。「交渉人」でも、「攻」が「受」以外の男と浮気しちゃう大地雷の展開がありました。読者さんからせつせつと悲しみを綴ったお手紙が来たそうです(笑)。
金田 わたしはむしろ好きですが、「攻」の浮気はいやだという方は多いですよね。でも、キャラが自動的に動いちゃったというか、それが書きたかったわけですね。
溝口 「魚住くん」でも、ご本人に、ここはどうしてああなったんですかと訊くと、「うーん、わからないんだよね」ということがありました。榎田さんほど理知的な作家でも計算外のところがあり、逆にそれこそが作家の創作の核なんだろうなと。
「魚住くん」はデビュー作とは思えない完成度で、いまやセンシティブ系BLの金字塔と言っていい作品ですが、やっぱり作家の初期衝動が詰まりすぎていて、ちょっとひとが死にすぎるというのはありますね。
金田 それはわたしも思いました(笑)。魚住くんが三人めの養親であるのは、それまでの親が死んでしまったからというのはいいとしても、途中の巻であるキャラクターが亡くなったのは、え、そこまでする? という印象がありました。作家さんの衝動が逬るのはまさにBLらしいところでもあるので、それはそれでみずみずしいという見方もあると思います。
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溝口 「魚住くん」シリーズが完結したあと、大洋図書やリブレなどで商業BL小説を量産していくわけですが、いまから振り返ると、いろいろ模索していた修業時代だったといえるかと。例えば、榎田さんの女性キャラって最初から強くて存在感があったんですけど、主人公の「受」よりも女の子のほうが輝いてるということがあったりして。
金田 それはBL的には致命的かも(笑)。
溝口 主人公がウェディングプランナーで、女の子が輝くのは彼の腕がたしかだという証ですから、間違ってはないんですけど。
そういう時期を経て二〇〇七年の「交渉人」シリーズあたりから、女性の出し方や主役脇役のバランス、ロマンスと事件などのバランスが完璧になってきて、そこからは無双ですよね。
金田 王道のBLを書くにあたって、プロデューサーとしての目を厳しくしたのか、非BLで培った経験が活かされてきたのか、その両方なんでしょうけど、たしかにぐっと完成度が上がりました。
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溝口 『この春』は、BLと非BLでこれまで修業してきたすべてが詰まって一段階上にのぼった作品だと感じます。
金田 BLの完成度から「あんたは俺のオンナにふさわしい」成分を抜いたみたいな。
溝口 「魚住くん」シリーズのような繊細な「喪失と再生」の物語でありながら、あんなにバンバンひとが死んだりしない(笑)。
金田 これで初めて榎田さんの作品を読むというひとにおすすめの最新形にして最高形という感じですよね。群像劇としても楽しくて、軽妙な掛け合いでそれぞれのキャラを掴ませるのが本当にうまい。「とうに死んでるあなたを探して」という、ともすれば暗くなりがちな話を、重くなりすぎずさわやかに展開しています。BLうんぬんを抜きにしても、ふつうに上手な小説で一気に読まされる。
溝口 エンターテインメントであることとメッセージ性のバランスが非常にいいですよね。あと、話の焦点の女性が国語教師なので、随所で短歌が引用されていて、それが面白いリズムを生み出していますし、小説の文体を読むのと違う脳みその回路を刺激される感じがして、その豊かさが心地いい。また、数字のマイナス×マイナスがなんでプラスになるのか、というのを塾講師をやっていた主人公が解説するところが面白かったりする。
金田 あそこ、ふつうになるほどとなりますし、キャラクターがリアルに感じられますよね。そのあとの分数はなぜ逆に掛けるのかという説明も省略しないでやってほしかったぐらいです(笑)。
溝口 そのへんは、近年のBLのお仕事物の流行が活かされていると感じました。BLフィクションを読みながら、その業界に詳しくなれるという。
金田 これは三浦しをんさんの言葉ですが、BLが「なるにはBOOKS」シリーズに近いと言われるゆえんですね。
溝口 職業がらみの説明が単なる説明なのではなくて、話の展開に絡んでいるのがうまいのは、「魚住」の免疫学、「交渉人」の交渉術もそうでしたが、『この春』では一段とさりげなく洗練されています。
金田 キャラの性格付けとストーリーテリングが同時に進行するのがじつに自然なんです。
溝口 「傷ついた子供が愛によって救われる」というテーマは、「魚住くん」シリーズだと最後に十歳の子供が魚住と知り合い、八年後、予備校に通う彼が魚住と再会するという、ある意味円環的なエピソードで締められていて素敵なんですが、ややあざとくもある。でも、今回はそういう明瞭な構造ではなく、さまざまな要素のうちに、自然と矢口はじぶんの子供時代と向き合い救われる。そこは作家的成長を感じました。
一方で、やっぱりベテランの作家さんになると、BLでもうまく書けているんだけど、なにか足りないと思うこともあるんですが、榎田さんは技術的に最高に洗練されていながら、ちゃんと初期衝動が感じられるのがいいんです。『この春』にも、ぐっとくるみずみずしさがありますよね。
金田 ネタバレになるので言えませんが、主人公の矢口には絶対なにかあるなと思っていたら案の定で、それが明らかになるシーンは、落ち着きのある大人の男だと思っていた矢口の、なんとも言えない哀しみが溢れて涙なしには読めない。
溝口 それがわかったあとに、そこまでのシーンを読み返すと、見え方が変わる。うまいです。
金田 いわゆる恋愛ではないですけど、小日向は本当に優しいひとで、矢口のことを見てるし考えてくれてますよね。
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溝口 主人公たちはもちろん魅力的なんですが、喫茶店から事故を目撃してしまったおばあさんとか、ちょい役なのに名優がやっているみたいな存在感で、脇役のキャラクターの描き方も本当にうまいんですよね。
金田 主人公を取り巻く住職の邑さんとか医者の花川とか脇役も輝いていますよね。話としてきれいにまとまっているので、続編をというものではないかもしれないですけど、キャラたちがとても魅力的なので、なんらかのスピンオフがあってもいいのかもしれません。
溝口 住職、主人公とか。
金田 そうなんですよ。邑さん好きなので、もっと読みたかった。ていうか、表紙に出ていなくて残念です(笑)。
編集部 邑さんは刊行にあわせてwebちくまにアップされるおまけマンガ(http://www.webchikuma.jp/articles/-/1276)に出てくるので、そちらをご覧ください(笑)。そもそも、初期バージョンは邑さん含め、三人組という感じだったんですが、書いていくうちに矢口、小日向の比重が大きくなっていったんですよね。
溝口 なるほど。たしかに腐女子脳で勘ぐると、邑さんと小日向の仲の良さはちょっと異常ですからね。
金田 小日向気づけよ……と(笑)。
編集部 スピンオフではないですが、実はカバー裏におまけの超短編が入っているんです。
金田 サービス満点ですね。図書館で読むとカバーが製本されてしまって、裏面が読めなくなるから、ちゃんと買えと。憎いなー(笑)。
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金田 そう言えば、榎田さんの小説って、けっこう喫茶店で事件が起こる率が高い気がします。どれだけ喫茶店好きなんだと(笑)。
溝口 そんなにありましたっけ? 今回のメインの舞台は喫茶店ですが、食事は鉄板焼き屋とうなぎ屋。食べ物屋が出てくることは多い気がしますけど。
金田 食べ物屋は多いですね。『ここで死神から残念なお知らせです。』で喫茶店がすごく重要スポットでその印象が強かったのかも。
溝口 「交渉人」は一巻が甘味処で始まりますよね。全体的に飲食物の描写は他の作家さんと比べても多いと思います。
金田 そもそも「魚住くん」の最初は、魚住が味覚障害で食べ物の味がしないというのが、彼の生きている実感のなさに結びついていて、それが久留米やサリームと交流するなかで回復していく話ですしね。
溝口 『この春』でもキミエさんちで、肉じゃがの肉が豚か牛かというところから詐欺師が突っかかってくるところとか、食べ物を具体的に出しながら、話を進めていくのいいですよね。
金田 芋けんぴも印象的でした。だいたい、誰かがなにか食べていて、食べ物の使い方がうまいんです。
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編集部 BL全般がそうなのか、榎田さんの特徴なのかわからないんですが、たとえば男性向けエロと比べた場合、触れる/触れられることの描写が多い気がします。男性向けエロだと、やはり視覚情報――パンツが見えたとかおっぱいが見えたとか――が多いのに比べ、BLは触れる/触れられる、そこでどう感じたかという触覚情報が多い印象があります。特に榎田さんはひとに触れること触れられることを通して、そのひとが変わっていくことを描くのがうまい気がするんですが、そのあたりいかがでしょう。
溝口 そうですね。「夏の塩」というのは汗の味で、それ自体がエロいわけではないですが、エロティックな含意がありますね。視覚ではなく触覚というのは、たしかにBL小説全般の傾向としてあると思います。もちろん視覚的にかっこいい、きれいだという描写もありますが、肝心なところでは、肌の熱さとか唇の柔らかさといった触覚的な表現が多いかな。
金田 わたしはいまの男性向けエロのトレンドに詳しくないので、はっきりしたことは言えないんですが、たしかにBLで、さっき触れた、または触れられた指の感触が忘れられないみたいなことは多いですね。
編集部 あと触れる/触れられるで言うと、男性向けだとあまり相互的な描写はないように思います。一方的に見るだけなので、触れた/触れられたでお互いがどう感じたということはあまりない。
金田 BL作家さんは、自分の書く世界のすべてを把握したいという傾向がたしかにあって、昔、二段組みで、ひとつのストーリーを「攻」と「受」の視点で並行して書くというものがありました。そうするとさすがに作品としては読みづらいものになるんですけど(笑)。
ちょっと話は変わるんですが、榎田さんの性描写で好きなのは、攻が性急に挿入しないところですね。最近の「nez[ネ]」シリーズは久しぶりに、一般的なBLのように、初めてであるにもかかわらず最初からすんなり挿入っちゃうものでしたけど(笑)。
溝口 嗅覚の異能力を描いた話ですよね。オメガバースとは違うけど、本能に支配される的な。
金田 そうそう。攻が持っている特定のにおいを嗅いだだけでめろめろになって身体が開いちゃうんですね。「お前、本当に初めてか」というBLで百万回くらい繰り返されたやりとりが出てきて、むしろ榎田さんの中では珍しいという(笑)。
やっぱりBLは一巻の中で挿入まで行ってほしいと読者は思っているという書き手や出版社のある種の思い込みがあるので、なかなかセックスに及ばない榎田さんはわりと例外的な作家ですよね。人気の「交渉人」でも一巻では挿入はないですし、「魚住くん」シリーズも二人が結ばれるのは相当話が進んだあとですよね。心情描写がリアルなのに、挿入だけ最初からすんなり挿入ったってファンタジーになると萎えるタイプなので、榎田さんはそこのところがちゃんとしていて好きですね。いちおう断っておくと、『この春』には挿入はありません(笑)。
溝口 BLではないですからね。でも、『この春』には別の方面で、異性愛規範から逃れた多様な愛のかたちを今後どんどん書いていってくれるんじゃないかという萌芽がありましたね。
金田 これもネタバレにひっかかるので、はっきりとは言えませんが、榎田さんの描く女性ってあまりにも魅力的なんで、もう脇役の女性同士でつきあっちゃいなよって思うことがありますよね。そういう方面の新作も期待したいです。
溝口 いずれにせよ、『この春』は榎田ユウリが二十年以上に亘ってJUNE、BL、ラノベと数多くの小説を書いてきた、その作家的経験と技術のすべてを惜しまず注ぎ込んだ作品であることは間違いないので、これまでの榎田さんの読者は言うまでもなく、これで初めて榎田さんを知ったというひとたちにも広く読まれてほしいです。
PR誌「ちくま」5月号から、榎田ユウリさんの新刊『この春、とうに死んでるあなたを探して』の刊行を記念して行われた金田淳子さんと溝口彰子さんによる対談を公開します。BLを研究するお二人がデビュー作からの榎田作品の変遷をたどり、その到達点である『この春、とうに死んでるあなたを探して』の魅力を語りつくしました。榎田ユウリ入門としても読める濃厚な対談、ぜひご覧ください!