賢明なる読者の皆さんは、2カ月以上、この連載が更新されないのを見て、金田さん、とうとう「刃牙」シリーズのせいで脳細胞まで筋肉になって……と、何かを納得していると思う。
いや、もちろん「刃牙」シリーズは1日30時間読んでいるが、その他にも、いろんなジャンルの作品に親しんでいる。とはいえ、私の見聞の範囲が狭いせいで、この連載の題材にできるような作品が見つからないのだ。
この連載をはじめる前に、私は「この世には、ほぼ無限に作品(講演、研究なども含む)があって、そこから自由に題材を選んでいいのだから、この連載では、けなす目的で何かを取り上げることはしない。私の考えるフェミニズムの視点から、誉められる作品だけ取り上げる」と決めた。正直に言えば、何かをけなすことは簡単だ。題材はそれこそ、TV、インターネット、書店、そして私の書棚から、ものの1分で見つけることができる。良い作品でも、いくらでも足りない部分を指摘することはできる。しかし、賢明なる読者の方々も、そんなお手軽な記事は読みたくないだろうし、できるだけフェミニズム的な希望を見出したいだろう。だからこそ、「誉められる作品」だけを(できれば最近の作品で、さらに「そんなところにもあったのか!」という意外なジャンルから)、取り上げると決めたのだ。
このように理想が高いのはいいが、私の現実の作品鑑賞量、鑑賞力が追いつかず、2カ月間、ナチュラルに題材が見つからなかった。
自分でもいかがなものかという気持ちはあるので、ここ最近は、「両手ぶらり」(前情報なし)というお約束をかなぐり捨て、はっきりとフェミニズムに関連した売り出し方をされている作品を読んだ。
それなら十分に獲れ高があるだろ、と思われるだろうが、私自身のアナル……いや、好みの狭さの問題で、意外と楽しめない作品が多く、フェミニズム的な長所すら、そこまで強く感じないのだ。もちろん個人的な、ごく主観的な評価ではあるのだが、とはいえ、私がなぜ、フェミニズム文学の中で、ある作品を評価できて、他の作品はあまり評価できないのかを考えてみることにも、少しは批評的な価値があるのではないかと思っている。
そこで今回は、いわゆる「フェミニズム文学」という売り出し方をされている最近の小説の中から、私が評価できる作品と、できない作品を対比的に取り上げたいと思う。
まず私がここ数カ月で一番、心を動かされた作品は『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ)である。すでに多くの書評があるので、私から事新しく付け足せることはない。多くの女性が「これは私の物語だ」と言っている通り、私自身も、キム・ジヨンとは国籍も世代も経歴も家族構成も異なるにもかかわらず、自分の経験との共通点に胸を打たれ、辛さのあまり、何度も読むのを中断した。版元が筑摩書房だからヨイショするわけではなく、文句なしにフェミニズム文学の傑作だと思う。できるだけ多くの男女に読んでほしいと思っている。
それに対し、私がこの2カ月内に読んだフェミニズム文学で、別の方向性で心を動かされたのが『声の物語』(クリスティーナ・ダルチャー)だ。現代にほど近い未来のアメリカが舞台で、全ての女性が賃金労働から追放されて家事労働に閉じ込められ、かつ、一日に話せる言葉がたった100単語(この語数を越えると電気ショックを与えられる)という、ディストピア状況が合法的に成立してから1年め、という設定だ。管理・監視社会という意味では『1984』(ジョージ・オーウェル)が、極端な女性差別政策という意味では『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド)(これ自体が『1984』からのフェミニズム的派生だろう)が、それぞれ下地になっていると思う。
『声の物語』について、私がフェミニストとして評価できるポイントは三点ほどある。
ひとつには、極端な女性差別政策が実現した世界の恐ろしさと、それを前もって防ぐためには何より政治に関心を持つべきだということを、主人公(ヒロイン)であるジーンの視点から明確に描いていること。全女性が賃労働から排除されるとか、女性が101語以上話すと電気ショックを与えられるというのは、いっけん極端すぎる設定であるが、現代日本で、多くの医学部が女性受験者だけを減点していた事実や、先進国中でも最悪の賃金格差、女性がフェミニズム的な主張をするとすぐに男性からクソリプが投げかけられるようなSNSの現状では、そこまで極端ではないかもしれない、と思わせられる。
二つ目には、このように女性差別政策が徹底した社会でも、その価値観に迎合的な女性や、他の価値観を知らぬ少女であれば、たちどころに順応することができ、もしかしたら快適ですらあることが描かれている。本当に恐ろしいのは、電気ショックで行動を抑制されることではなく、この世界を当たり前のものとして受け入れ、自ら進んで差別を受け入れることだ。小さな娘がこの世界に違和感を持たなくなっているという、最悪の事態に気づいたジーンは、まだ自分の中に抵抗する心があるうちに、一刻も早くこの世界を変えなければいけないと決意する。
三つ目には、『声の物語』にも、実は至るところにレジスタンスがいるのだが、それらの重要な役割の多くを、レズビアンや、非白人が担っていること。レジスタンスである黒人女性から、「こんな世界では、いつ黒人がもっとひどい差別にさらされるかわからない」と説明されたとき、白人女性であるジーンは「考えたこともなかった」と、自らの無知、不見識を恥じる。かつての白人・中産階級・異性愛者によるフェミニズムが見落としていた視点が、反省的に提示されている。
このように『声の物語』で評価できるポイントはそれなりにあるし、世間的にもこれらの部分が評価されているのだと思う。が、個人的には、特にSF設定と、エンターテインメント性を加味したがゆえの筋の粗雑さがひどすぎて、長所をすべて帳消しにするレベルだった。
まずSF設定についてだが、全賃金労働者中のほぼ半数にも及ぶ女性労働者をすべて解雇するという政策が、1年の間に速やかに施行されたことになっている。仮に本当に1年以内にこんな政策が実施されたならば、深刻かつ急激な労働力不足が起こり、経済活動の大幅縮小によってドルが大暴落し、連鎖的な世界大恐慌に陥るだろう。作中でこの問題については「男性が平日12時間労働を強制される」「女性熟練労働者の抜けた穴に、男性不熟練労働者が補てんされる」「男性不熟練労働者が抜けた穴に、収容所の女性(同性愛者、姦通罪、政治犯など)が補てんされる」という説明がある。
申し訳ないのだが、労働をなめているとしか思えない。「男性が12時間労働」については、この小説内のアメリカが労働者に手厚くて、元々4時間ぐらいしか働いてなかったのかなと思って、変な涙が出た。
また、女性たちは基本的に再生産労働に励むことになるのだが、そのさい、「1日100語までしか話せない」ことのほか、「家政に必要なこと以外の教育を受けない(女性は文字を読んだり書いたりしてはいけない、通信してもいけない)」という設定がある。
もちろん、世界の歴史を紐解くと、女性に発言権がなく、そもそも男性並みの読み書きの教育を受けられないという時代はそれほど昔のことではない(地域によっては現在も存在する)ので、これも極端すぎる設定ではないのかもしれない。
しかし、賃労働の件と同じく、21世紀が舞台となっている作品内の設定としては、いくらなんでも再生産労働が非効率・不確実になりすぎないか。ほとんどの家事が機械化・社会化されているという設定があれば不自然が緩和されるのだが、特にそういう描写もないのだ。
このように、この小説内のアメリカは、自ら破竹の勢いで労働力を減らし、再生産労働者の能力をも著しく制限・棄損していくのに、なぜか経済危機に陥っていない。私から見ると、このことが一番、注目すべき奇怪な舞台設定だ。同種の奇怪さについては、正直言って『侍女の物語』の設定についても感じたのだが、『声の物語』はかなり近い未来のアメリカが舞台なので、奇怪さのレベルが違う。
ここまで読んで、「金田さん、SFというのは、設定の実現不可能性には目をつぶるものであって、その設定だからこそ描けた物語、表現を楽しむジャンルですよ」とたしなめたくなった人がいると思う。私も、自分があまりにも、SF設定とかミステリのトリックとか「刃牙」シリーズに出てくる技とかの実現不可能性を気にしすぎだとは思う。「刃牙」を読んでる人に、『声の物語』の重箱の隅をつつかれたくないと言われると、ぐうの音も出ない。
しかし、私が『声の物語』について「マジかよ」と思ったのは、これらの設定部分だけではない。かんじんの物語の筋書き、結末についても、『週刊少年マガジン』ばりに「⁉」と叫びたくなる展開の連続だったのだ。
この先、物語の筋と結末に関する巨大なネタバレをするので、「ネタバレなしで読みたい」という方は、読んでからまた戻ってきてほしい。
【次ページ、『声の物語』のネタバレがあります】