鬼海弘雄の写真のなかで、人間は、一個の「もの」となる。名前も、地位も、生物的な種別もとりはらわれた、この世でたったひとりきりの、代替不能な存在。だから、命を賭しての寂しさと、尊厳がみなぎっている。
もの、とは、国語学者大野晋によれば「自分の力で変えることのできないこと」。たとえば運命、事実、四季の移り変わり、あらがいようのない自然も、そのなかに含めてよいかもしれない。
もの思い、とは、なんとなく思っている、ではなく、自分の流れてき、これから流れてゆく運命を思うこと。写真を眺める。表情、服装、境遇、ひとりひとり違う。あらがいようもなく、そうなってしまった。鬼海弘雄は、ものがなし、を撮る。いかんともしがたい、もののあはれ、を撮る。光が結晶化し、そのひとだけの、ものがたり、が顕在する。
ものがたりの一話ずつ、一話ずつに魅了され、ページを繰る。サングラス、帽子、首に巻かれているあらゆるもの。男がてのひらにのせたぬいぐるみは、その色、その形でなければならなかった。肩の猫、抱きすくめられた犬、動物たちの上にも、それぞれの速さで時間が流れてゆく。
写真のなかのひとりびとりが、自分のものがたりを引きうけ、まっすぐに、ななめ加減に、からだを揺らせ、この世にただひとり立つ。カメラを構えた写真家は、一個の「もの」となったひとを前に、深々と頭をさげてシャッターを切る。
ページを繰るうち、なんだか少し、写真が大きくなったような気がして、少し前にもどってみる。やはり同じか。目の錯覚かも。
かすれた声、そのものの顔。工作重機そっくりの技術者。首にかけられた線路のようなマフラー。「モデルのような仕事だったと云うタカハシさん」と「元松竹歌劇団のプロダンサー」。
まちがいない。写真がひろがっている。目にみえる現象として、だけでなく、別の写真と相互作用を起こして。
写真におさめられた一個の「もの」は、隣あうもう一個の「もの」と、いつの間にか対話している。空間をこえ、時間をこえ。個、という「もの」の、運命さえこえて。ひとりびとりの「もの」がたりが、ページのなかで揺れ動き、隣の「もの」がたりとつながりあって、撮られている同士、撮っている本人さえ思いもよらなかった、あらたな「もの」がたりが、眼前で生まれる。本人同士の写真が二枚ならんでいる場合でさえそれは起こる。人間たちの「もの」がたりは、運命を突き抜け、まあたらしい人間を未知の時間上に立たせる。
めくっているうち、とあるページで、この親子、と息をのむ。「三人の息子を引き取り、育てていると語る男」と「『寒い今夜は、湯豆腐だね……』と話す人」。おそらく血のつながりはない。ただ、鬼海さんはふたりの間に、まちがいなく縁の匂いをかぎとった。だからこうして、分かちがたく並んでいる。そのことの奇縁。そのことの奇跡。
そうしてページをめくったら、そこに「ハウス・クリーニング業者」と「その無口ぎみな息子」、つまりほんものの親子が立っている。むせかえる縁。血と呼吸。ページをこえて「もの」がつながる。隣りあった同士だけではなかった。「PERSONA最終章」の、すべてのページが響きあい、一冊の本という形をこえて、大きなひとつの「もの」がたりをなしている。
初めて海を見る子どものように僕は立ちつくした。大海を満たす水の一滴ずつに、これまでの「PERSONA」、鬼海さんの撮った写真一枚いちまい、そこに立つ人間の生命が映りこんでいる。PERSONAはけして終わらない。ページをひらくたび、たえず新しく波打ち、響き合い、生きつづける。僕たちはそれぞれ、たったひとりの人間だ。それはささやかではあるが誇るべき、かけがえのない勲章なのだ。
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