レイモンド・カーヴァーとデニス・ジョンソン
柴田:今日は短編小説がテーマなので、柴崎さんが今まで短編小説をどういうふうに読んできたか、どういう短編小説にインスパイアされてきたかという話もうかがえたらと思うのですけど。
柴崎:はい。どういうものに影響を受けてきたかという話でいうと、ひとつ大きかったのはレイモンド・カーヴァーです。「ミニマリズム」と言われていますけど、レイモンド・カーヴァーの、本当にただそこにあるというか、場面が書かれているだけで、でもそこから想像できて書き込まれていないことも伝わってくる、あの感じが好きです。小説がこちらに手を差し伸べてくるというよりは、ただそこにあって、読んだあともすごく親しい感じになるわけでもなく、横に座ってる人みたいな感じの佇まいというか。レイモンド・カーヴァーのなかで、例えば「ダンスしないか?」だと、ガレージセールで家の家具を全部庭に出してる人のことは、読み終わったあとも全然分からないですよね。
柴田:出てくる女の子も、自分が何を言いたいのか分からないまま終わっちゃう。
柴崎:そう。ある種、読んだ人を突き放すような感じがあって、小説にはこういうことができるんだということを教えてくれた作家ですね。
柴田:カーヴァーの他にはどうですか?
柴崎:『百年と一日』に通じる話でちょっと変わった短編でいうと、カフカの短編で断片みたいなのがありますよね。あの急に変な状況とか変な生き物がいて、ただ終わってくという感じが好きです。あと人間の描き方では、チェーホフの短編が好きです。ちょっと俯瞰して見ているというか、それこそ神の視点のような、「人間が下界でなんかいろんなことやってまーす」みたいな距離感が好きですね(笑)。柴田さんが翻訳されているのだと、デニス・ジョンソンはすごく好きです。
柴田:デニス・ジョンソンはどういうところに惹かれますか?
柴崎:特に『ジーザス・サン』(白水社)がそうですけど、ひと言で何か凝縮されたような密度の濃さと言ったらいいのかな、一言ひと言にある圧倒的な感覚ですね。
柴田:彼の小説に出てくる人がみんなアウトローだったり、社会的には落伍者っていうか、友達にするのは困るなみたいな(笑)、そういう社会性みたいなことは、あまりポイントではない?
柴崎:いや、そこもポイントです。駄目な人が出てくる小説は基本的に好きなので(笑)。彼の場合は、社会的にはみ出してる人でも、ユーモアがあるじゃないですか。そこがけっこう重要で、『ジーザス・サン』も一歩間違えると、人生うまくやっていけない人をもっと自虐的にとか、自己憐憫みたいな書き方になりそうなところを、そうならずにちょっと笑えるところがある。そこがとても好きなんです。人に対する小説の中の語り手の距離感みたいなものが、たぶん自分にとっては重要かなと思いますね。
柴田:逆に苦手な短編小説はありますか? 例えば、O・ヘンリーみたいにきれいにオチがあるとか。
柴崎:ああ、そうじゃない方がいいです。因果関係がピッタリこない方が。
柴田:柴崎さんは「かわうそ堀」の怪談もお書きになっていて(『かわうそ堀怪談見習い』角川文庫)、柴崎さんの小説にはしばしばどこか怪談的な要素があると思うんですけど、その怪談も今おっしゃったような意味で、因果関係にほころびがあるものが奇譚・怪談というかたちで出てくるというタイプですよね。
柴崎:そうですね。怪談とかホラーが好きなのは、ひとつには、最初に話したように、場所と時間が絶対関係してるからなんです。でも、怪談でも原因があって復讐されるみたいじゃないほうがいいですね。とばっちりみたいな方法で人が恐がらされたりとか、その理由がわからない方が好きなんです。