あらすじには収まらないものが小説
柴田:『百年と一日』素晴らしいですね。これは雑誌(PR誌『ちくま』)で連載されていたということですが、書きながら今までの短編集とは違うことをやっているという手応えはありましたか?
柴崎:今までの経験から、いつも次はもう少しこういう感じで書いてみたいなというものがあるんですけど、今回はPR誌でページ数も少ないので、短いもので面白いことをやりたいと思いました。でも、それがどんな感じものなのかというのが、自分でもはっきりとは分からなかったので、担当の編集者さんに説明していても分かりづらいというか(笑)。
柴田:たしかに、ひと言で「こういうコンセプトで書いています」と説明するのは難しいですよね。
柴崎:これだけ33編が集まって単行本という形にするとある程度伝わるんですけど、まだ何もない状態では、「時間が経つ話が書きたいんですけど」って言ってました。
柴田:あ、「時間が経つ話」ですか。
柴崎:長い時間が短い文章の中にあるような、昔話っぽいのを書きたいなと。でも実際に何編か書いてみると、この時間が経っていく感じをいろんなかたちで書いてみたら面白いな、というのが自分でもだんだん分かってきました。
柴田:柴崎さんの小説は、テーマとして場所ということはよく話題になるんですけど、『わたしがいなかった街で』(2012年/新潮社)あたりから、場所というテーマに時間というものがだんだん加わってきてる気がするんです。この短編集は、それが凝縮された感じがしていて、今は時間についておっしゃいましたけど、やっぱり場所ということもすごく濃いですよね。
柴崎:そうですね。最初は場所とか移動とかが自分の中で書きたいものとしてあってずっと書いていたんですけど、場所を書いてると自然と時間のことも出てくるというか、場所とか移動はやっぱり時間が関わってくるなと思ったんですね。もちろん場所自体にも興味がありますけど、場所はそこにある時間とか過去とか、あるいは誰かの記憶とかそこに居た人の経験みたいなものをつないでいるものなんじゃないかなと思って、そういうものを自分は書いてるのかなと、だんだん自覚するようになってきたという感じです。
柴田:なるほど。普通、時間の流れというのは小説では物語で伝わるわけじゃないですか。でも、『百年と一日』は、もちろんストーリーもこの33編の中に一つひとつあって、これはどなたも話題になさっていると思いますが、一編ごとにストーリーの要約になってるような長いタイトルがつけられていますよね。でも、これを読めばだいたい理解したことになるかというと、そうはならないところがミソで。
柴崎:そうなんです。小説って、あらすじで紹介されることが多いと思うんですけど、実際にその小説を読むと、思っていた感触と全然違うっていうことがよくありますよね。むしろそのあらすじに収まらないものが小説なのかなと思っているところが私にはあります。
柴田:英語の小説では、18世紀あたりまでは、長編小説では各章の出だしにその章の要約が書いてあるのが普通で、僕が朝日新聞で連載している「ガリバー旅行記」(毎週金曜夕刊に掲載)でも、各章でそういうことやっているんです。でも『百年と一日』に入っている短編は、タイトルが素直な要約になっているのではなくて、これと本編を読んで、そのズレとか落差を感じて、「物語って何だろう?」「小説って何だろう?」というところに自然と頭がいくようになっています。そこがすごく面白かった。
柴崎:読んだあとにタイトル見直すと、「そんな話だったっけ?」みたいな感じに、たぶんなると思います(笑)。
柴田:それで、僕はまさにこれを自分でもやりたがっているんだなと気づいたんです。というのも、編集長をしている『MONKEY』という雑誌で、そのうちシェイクスピアの特集をやるつもりなんですけど、シェイクスピアの芝居一つひとつをこのぐらいの長さで要約して並べてみたいんです。ちょっとピントがズレた感じで、例えば、「母親の再婚に何となくなじめないで恋人とも疎遠になり、髑髏と話をしてる男の話」とか。これは『ハムレット』ですけど(笑)。ある意味で柴崎さんのこれも、全然ネガティブな意味ではなく、ピントがズレているというか。
柴崎:そうなんですよ。実は連載しているときは別の短いタイトルがついていて、単行本にするときに全部つけ直したんです。だから、これだけ短い話でも、要約すると、どの部分を書いてどの部分を出さないかということがすごく重要になってくるんです。