顔のない小説と、顔のある映画
映画『82年生まれ、キム・ジヨン』が10月9日に日本公開された。
原作本を読まれた方ならわかるだろうが、この物語は結末が独特で、端的に言って希望のかけらもない。非常にコンセプチュアルな小説で、読んだ人にショックを与え、否応なく考えさせるように仕組まれているからだ。そのため読者の皆さんからは「これをどうやって映画にするの?」という声がかなり聞こえてきた。
そして2019年秋、韓国で映画が公開されると、いち早くそれを見てきたという読者の方が『キム・ジヨン』関連の講演や読書会などに参加されて、「本と全然違うんですよ! あー、どう違うか言いたい!」と発言されることが重なった。その「あー、ネタバレしたい!」という意欲は見るからに強く、独特の熱気をかもし出していたので、私の興味も高まった。
そして、2019年末にDVDで映画を見たときの印象は「確かに違うけど、必然的にこうなるだろうな」というもので、「本も映画も、それぞれによい」というあまりにも普通の感想しか出てこなかった。こんなの大人のお約束で、誰でも言いそうなことだと思うかもしれないが、この場合はお世辞ではなく本当にその通りなのである。
というのはそもそも、『82年生まれ、キム・ジヨン』という本では登場人物に顔がないのが特長なので、本と映画を比較しようがないからだ。
何しろ、本にはキム・ジヨンをはじめ誰についても、外見の描写がほぼ、ない。
背が高い低い、太ってるやせてる、髪が長い短い、目が大きいとか鼻が丸いとかめがねをかけているとか。そういう描写がない。着ているものの描写もほとんどないし、人物たちが服の好みを語ったりすることもない。
ただ、わずかな例外があって、それを注意深く見ていくと、なぜこんなにも「顔のない」小説なのかがおぼろげにわかってくる。
社会の価値観によって押しつけられた外見
まず、キム・ジヨンが会社に勤めているとき、クライアントの一人が「キム・ジヨン氏は顔の形もきれいだし鼻筋も通っているから二重まぶたの手術さえすればいい」と発言するシーンがある。
また大学時代には、お金がなくて大学を休学せざるをえなかったクラスメートが、袖口の伸びたジャンパーを着ていたという描写がある。
さらに、キム・ジヨンが就活中に面接で同席した女子大学生たちが全員、自分も含めて耳の隠れるぐらいのショートボブ、ピンク系の口紅、チャコールグレーのスーツだったという描写はある。
これらはすべて、個性をあらわす外見の描写ではない。社会の価値観によって押しつけられたり(整形や就活ルック)、経済事情(友人のジャンパー)などの社会的要因で規定されてしまう外見を描写しているのだ。
本書は、主人公が経験する女性としての失望も絶望もすべて、彼女の個性や性格ではなく、社会システムに原因があるという実に明確なコンセプトで成り立っている。だからこんなに「個」としての外見描写がないのだ。その結果として読む人は、何にも邪魔されず、キム・ジヨンに自分を投影することができる。
日本語版の表紙がそのあたりを実にうまく視覚化してくれている。そこでは女性の顔の部分がくり抜かれて風景が映り込んでいる(絵は榎本マリコさん、装丁は名久井直子さん)。実は原書の表紙も女性の後ろ姿と長い影法師のイラストで、やはり、「顔のない」本であることが際立っている。
原作小説が与えたショック、その先を描く映画
さて、顔がなく、結末に救いのないこの本。これをそのまま映像にしたら、一般の劇映画にはなりようがない。見る人を巻き込む実験的な作品(例えば、70年代の日本のATG映画みたいな)に仕上げることもできるかもしれないが、まあ、130万部という大ベストセラーになった小説をわざわざ実験映画にはしないだろう。
ということでチョン・ユミとコン・ユという、好感度の非常に高い、そして今までも『トガニ』『新感染』という映画で同志のような関係として共演した俳優さんによる映像化が実現した。結果として、この二人がきわめて普通に見えるように細心の注意を払ったルックスで登場するので、美男美女ストーリーで観客が疎外される感じはない。結果としてたいへん感じがよい。本にあった「毒」はない。だが「毒でショックを受けたその先へ」という意図が非常にはっきりしている。
また、本では淡々と描写されていた母、祖母、姉、会社の上司や同僚など多くの女性たちが顔を持って現れるため、「女たちの物語」という印象は本より映画の方がずっと強い。
本と映画の違いについてもう少し紹介しておこう。
この小説はコンセプチュアルな作品であるため、登場人物の顔以外にも「意図的に抜かしたもの」がたくさんあった。その一つが「女性の登場人物には全員名前があるが、男性にはない」ことだ。正確にいえば、キム・ジヨンの夫チョン・デヒョン以外の男性に名前がない。
キム・ジヨンのお母さんの名前はオ・ミスクとわかっているが、お父さんは「父」でおしまい。おしまいにされた父の母、つまり父方のおばあちゃんの名前はコ・スンブンだということまでわかっているのに、本人は一言、「父」でおしまい。
そしてキム・ジヨンのお姉さんはキム・ウニョンだが、対して弟は「弟」で押し通す潔さ。
普通なら「彼女が」とか「母が」と書くだろう箇所で、この小説はいちいち「キム・ジヨン氏が」「オ・ミスク氏が」とくり返す。ともすれば「誰々の妻」「誰々の母」で済まされてしまう女性の名前を、フルネームでしつこいほど連呼するのだ。男性の名前を空洞化させることで、さらに対比を際立たせている。
映画では、ジヨンの父は「キム・ヨンス」で、弟は「キム・ジソク」であることが判明した。新しくつけてもらったのだろうが、拍子抜けするほど普通の名前で、だがそもそも「キム・ジヨン」という名前が1982年生まれの韓国女性の中でいちばん多い名前という設定に基づくものだから、バランスが取れている。彼ら、普通の名前の父と弟は、女性の感じる人生の不都合にまったく鈍感なのだが、キム・ジヨンの病気をきっかけに徐々に変わっていく。これは本にはない部分だ。