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芸術作品が普遍性を持つかどうか、という問いがある。それは不可能な願望にちがいないが、ひとつ言えることはある。
ある作品が制作され、その時代のなか、人々のなかで一定の意味を与えられ理解されている。が、この時代が去っても、つまり別の時代、別の場所に置き換えられても、必ずしもその作品は意味を完全には失わない、理解できないものとはならない。この別の時代、場所においても理解されうるもの、受け取られうるものに、普遍性と呼ばれてきたものは近いだろうということである。
椅子に座っている少女がいて、竪琴を弾いている。つま先だけ地面につけ、踵は浮かせている。少女は地面を見つめている。一方、少女から少し離れたところに青年が立ち少女を見つめている。けれど少女は青年に気づいている様子はない。少女の視線の先、足の先にいるのは小鳥である。小鳥はどうやら青年の存在に気づき、そっとその衣にくちばしを寄せるように近づいていっている。──以上は紀元前5世紀ギリシャでつくられた香油をいれるための壷、レキュトスの一つに描かれた絵の記述である。レキュトスはもともと主に男性の死者に塗る香油を入れる壷で、のちにはこの細い首の壷は墓の前に置かれ、水や花が活けられるようにもなったという。
竪琴を奏でる少女は青年に気づいてはいない。少女を見ている青年は死者であり、だから少女には見えないのだ。《たましい》はここにいながら、もうこの世にはいない。少女は死者のために音楽を捧げているのだ。が、小鳥だけは少女と青年を結びつけるように青年の存在に気づき、その衣に近づいていっている。霊となった青年はおそらく竪琴の音を聴くことができないだろう。けれど小鳥の声を聴くことはできるのではないか。というのも墓の前にいる、わたしたち鑑賞者も少女の竪琴の音を聴くことができないが、墓のまわりでさえずる、小鳥たちの声をいま聴いているから。わたしたち鑑賞者は死者の側、死者とともにいるということになる。小鳥の存在がその二つの世界を媒介している。