漫画みたいな恋ください

号外:入籍の日
2018年9月13日(木)

まずはこの連載を読んでくださった方にお伝えしたいということで、鳥飼茜さんから、ご報告を兼ねた日記をいただきました。鳥飼さん、ご結婚おめでとうございます。結果的に、先日刊行した『漫画みたいな恋ください』は、お二人のご結婚に至るまでのいきさつが描かれることになりました。進行の都合で今回の日記は収録できませんでしたが、あわせてお読みいただければうれしいです。

 日付が変わったその夜、私は近所のバーにいた。こっそり祝杯をあげたかった、独身最後の夜だった。

 大事な区切りの日取りを吉凶に頼りたくなるのは私だけではないのだろう暦ではロイヤルストレートフラッシュ並みの大吉日にあたる平日昼過ぎの区役所、戸籍届出係は非常に混雑していた。私と彼氏は少々硬めの待合席に並んで座り、自分たちの番号が呼ばれるのを待っていた。

 結婚を決めてから半月が過ぎ、何人かの知り合いにそのことを伝えると皆多少の感動とともにおめでとうと言ってくれる。おめでとう、すごいね、信じられない、と驚いてくれるのが気持ちよく、もしかして結婚ってこの知り合いへの報告がピークなんじゃないかと思えてくる。あとは知ってのとおり、日常の繰り返しだ。
 おめでとうと言われるたびにそうかこれはめでたいことなんだ、と自分の現況にめでたいという輪郭を与えていく。
 そうしなければ自分では形を認識できないほどに、結婚は唐突に訪れたのだった。

 半月前、彼氏は再び炎上中だった。題目はともかく、私個人の独断から言えばこの人はとにかく人から当てこすられやすい。
 私が漫画家を目指して上京したころ、ひとつ年上の彼はもうすでに時の人だった。デビューしたときからその時代性、物語の情感、キャラクター像、作家自身の個性、すべてが際立っていた。私は会ったこともない「浅野いにお」という漫画家に敵対心すら持っていた。しれっと時代に選ばれやがって。何のいわれもないこのような恨みを、この人は私にだけではなく様々な人たちから直接または間接的に、時に軽口、時に悪口として当てこすられ続けてきた。それは想像を絶する苦しさである。でもどこかでみんな思っているのだと思う、「でもだって、それは有名税でしょう。そのぶん選ばれたものとして得るものが大きかったのだから、自分がちょっと憎まれ口を叩くくらいのことは、どってことないでしょう」、と。少なくとも、私はそう思っていた。

 この人と一年半の真剣交際を経て知ったこと、それは彼氏も人の子だということだ。
あるとき不意に時代の寵児のように扱われ、いついかなるときも優待されていると勝手に憶測され、それでも努力を一瞬でも休めば人の関心は残酷なほど移ろってしまう。というか努力したって人気は維持できるものではない。最大に努力してるのが普通の状態、気を抜けば滑落、そんな気分でこの十数年間を漫画と、あとはほぼゲームとレゴブロックだけに費やしてきた彼氏の半生の一部を知るにつれ、私は自分の甘さを反省した。
 人は、誰にもちょっとした悪癖が備わっているように思う。自分より恵まれて見える人に対して、いとも簡単に石を投げつけてしまうような。どんなに痛めつける言葉を投げても、ビクともしないと思っている。あるいは傷つけたとしても、それは自分の不運と比べれば取るに足らないことだと思っている。そんなわけがない、相手は人間なのだ。些細な言動であれ自分を傷つけようとするものに、心を痛めないわけがないのだ。
 そしてそれは場合によっては立場が入れ替わり立ち替わりするものだ。この話は白熱してしまいそうなのでここまでにしておく。
 とにかく彼氏はそのとき不安定だった。いままでもずっと不安定だったが、短い期間に繰り返される炎上に心を砕き、常時に輪をかけて不安定だった。

 結婚しよう、そう言われたとき私の返事は本当に? だった。もう何度か期待した挙句に流れたその企画自体への疑いもあったし、何よりも彼氏をとりまく状況が最低だった。もう生きていること自体がつらいとまで言いだしていたのだ。
「自分がこの先いつ死んでも財産整理を頼めるように」。想定を超えた、MAX後ろ向きプロポーズだった。

 私は混乱した。私の求めていたものはこれなのか?
 結婚に夢見ていたものは、正直これではなかった。「幸せにするよ」とまでは求めないが、「一緒に歳を重ねて幸せになろう」という前提が当然だと思っていたのだ。後片付けをよろしく的なことでは納得がいかない、私は突然に差し出された結婚という切符を素直にありがたく受け入れることができず、自分の感情にしばらくのあいだ、輪郭を与えることができないでいた。
 これは祝福されるべきことなのだろうか?
 祝福。私はそれに囚われていた。親兄弟を含む、他人に祝福されたい。そして祝福される結婚には一定の形があると思っていた。あの有名な結婚情報誌的な、一定の形が。

 結論から言えば、結婚は夢の国への切符ではない。
 ただの日常だ。それぞれ別の相手と結婚を一度、途中で撤退した私たちはそれを知っている。さらに言えば、私たちは子供を持つ期待もなく、どちらかの収入で生活を担保するつもりもなく、結婚という制度を採用する必要はほとんどないのだ。では私たちにとっての結婚が意味するものってなんなのだと考える。幸せになる確率変動を起こす魔法の切符じゃないとしたら、それは。

 私たちが生きるうえで選べることは限られている。無数の選択肢が目の前に用意されているようで、実は持ち時間を消費するに相応しいものを選び続けるのは至難の技だ。どれにしようかな、と思案している時間が一番長いかもしれない。どこに行こう、なにをしよう、自由に選べるのは今日食べるものくらい、それだってお財布とお腹の具合により限られている。自分の子供と親も当然選べない。でも自分の人生を誰と過ごして最期を迎えるか、それは自分で選ぶことができる。この人も私も、二人でいる日常を選んだ。いつかの最後まで、互いが隣にいる日常を選び続けることを選んだ。ロマンチックなプロポーズではないけど、とてつもなく厚みのある口約束。
 そう思うことにした。

 この人のあらゆるアクロバティックな言動を、私はここまでのところ、優しさや誠実からくるものとみなしてありがたく頂戴してきた。だから今回もそのようにする。

「自分がいつでも安心していなくなれるように、結婚しよう」

 どう取っても良いならこれは愛情表現の極みだ。
 おめでとう。幸せになってね。ありがとう。
 この数日、数人とのあいだで交わした言葉を、自分に投げかける。自分に自分がおめでとうを投げかけながら、区役所からの帰り道を歩く。
 おめでとう。

 自宅に帰った私は、もち米と豆があらかじめセットになったもので赤飯を炊き、鯛に似たイトヨリを二尾買ってきて鱗を取り、尾頭付きを塩焼きにして息子と二人で食べた。「今日なんでお赤飯だかわかる?」と息子に聞くと、「お盆?」と聞き返された。
 笑ってしまった。