私の実家は、自他ともに認める「うなぎの寝床」だ。とにかく細長い。住んでいたときは何とも思わなかったけれど、上京後、久々に帰省した実家はうなぎの代官屋敷だった。南北へ歩いても歩いても壁にあたらない。当時十六平米の鳥かごに住んでいた人間としては、とても同じ国のこととは思えなかった。
父と母の結婚式のご祝儀で作ったという石の外壁、その上に規則正しく剪定された植木、石段を数段上って松の木のアーチをくぐると、両開きの立派な玄関が現れる。一瞬、私お嬢だったのか? と勘違いするが、この玄関はお客さん用で我々は殆ど入ったことがない。少し歩いて、二つ目の玄関。これはおじいちゃん達が使う方のだが、肝心のお客さんも親戚も皆ここからピンポンもなしに入ってくるので、一つ目の玄関は訪問販売とお遍路さんのためにあるようなものだった。その隣、ちびまるこちゃんちみたいな引き戸を開けて「ただいまー」。ゴールとなる。
一歩中へ入ると昭和の田舎の家だ。しかも世界にたった一つの。無垢の床は日焼けするからと色んな種類のカーペットが敷かれているし、畳に躊躇なく置かれたピアノの上には、歴代の家族の写真が並べられている。明らかに積載オーバーだ。甥たちの描いた絵(タイトル画も甥のゆうと作)が土壁にガシガシ画鋲で止められ、ついでに商店街でもらったお決まりの着物美人のカレンダー。その上の鴨居に肩身狭く私や妹が学生の頃もらった賞状がかけられている。家というのは、たとえマンションの同じ間取りだとしても住む人によって全く違う空間になるからおもしろい。その家族だけが知る秘密の歴史が詰まったシェルターだ。
六月、そんなシェルターを台所を中心に改築することになった。大工さんは点検しながら「旅館でもすればいいね」と呟いた。
曾祖母ちゃんと、父の弟がいた時代をMAXに数えると、ええと、妹はまだ生まれてなかったから、九人か? 私は三姉妹の真ん中、自由担当の次女だ。祖父母が主に生活していた母屋は六十年前に建てられた。二十畳はある台所と食事室の半分が父母の結婚を機に広げたのだそうで、それを境にうなぎの寝床化していく。牛小屋だったところを子供部屋に建て替え、さらにさらに私が高校一年のときに、納屋を壊して年頃の娘たちの部屋を二部屋増築。そして今年からまた……ガウディの作品のように、家族の形態とともに家は完成されない。
「いくらなんでも繫げ過ぎや」と大工さんは言った。「そら雨漏りもするってもんですよ……」。
十一部屋もあるこのお屋敷に今は父と母だけが住んでいる。
「これはもう建て減らしをせんといかん」と父が言うようになった。
「いやいや流行りか何かしらんけど、そんなに片付けにやっきにならんでもええやん」と呑気な母と私。せっかく膨らましてきた夢の中で死ぬまでおったらええやんと思ってしまう。
「でも、台所はずっとずっと変えたかった。我慢してきた」と母が言う。寒くて、湿気が多くて、暗い台所で三十六年間ご飯を作り続けてきた母。
祖父も父も長男だったためお彼岸や正月じゃなくともとにかく親戚が大集合する家だった。母は文句一つ言わず手際よく二十人前のご飯を作って座敷に運んだ。お料理は好きだし、むしろ今思うとそれがすごく楽しかったとも言う。カラオケセットが運ばれて、私もよく歌を歌った。お年玉の数含め楽しい子ども時代、我が家には外壁はあるが人との垣根はなかった。遍路道に家があるのでお遍路さんが訪ねてくることもしばしばだったが、今あるものを一緒に食べる、そして少しのお布施を渡し、深くは尋ねない、そういうことを今も当たり前に行っている。
四国の山間ゆえ先祖達が開拓したときは苦戦したのだろうと思われる。二階の窓を開けると、お隣さんの一階が見える。道を挟んで我が家の下にも家々はある。つまり階段に家が建つ集落と思ってもらえばいいだろう。そういうわけで家の一階は地下と同じような環境で湿気がすごい。床下収納なんて使えたもんじゃないし、シンクの中だって夏はカビが生えるから何も入れてない。まあ夏は涼しくていいが、冬は室内でも二度になり、外のほうが暖かかったりするくらいだ。楽しい思い出とは裏腹に母の奮闘ぶりが想像できた。
建築家に見てもらうと、台所を広げたとき境界の石垣ぎりぎりまで拡張したことも湿気の原因だろうと言う。内側に縮めて、日光と風が通るようにしよう。開閉式天窓やカウンターキッチンにパントリー、あと何年生きるかわからんからこそ、その願い叶えてしんぜよう(父がね)。
三十六年ごしの母の「一生のお願い!」が叶う時がきた。
いくらカビが生えるシンクでも、ゴキブリが勝負を挑んでくる台所でも、壊す瞬間は裏切り者みたいで心が痛む。この台所が大好きだったおじいちゃんが悲しみやしないかなとか、化けて出ないかなとか。良心が痛む私達をよそに、何の躊躇もなくぶっ壊していく大工さんたちが頼もしく思えた。
スヌーピーやゲゲゲの鬼太郎の袋の切り抜きやシールを、窓ガラス一面に貼りまくった居間の扉が外されて外に運び出される。
「三丁目のタマ貼ったのって誰だっけ?」
「それは久美ちゃんじゃない?」
「ああ、思い出した。病院の薬の袋だったんよな。じゃあくまモンは? これけっこう新しいんじゃない? ゆうとの?」
「それは美佳」
「うそ! くまモンって最近やん。その頃こっちにおった?」
剥がれるものだけ剥がしてノートに挟んだ。外に出された扉は完全に異質な存在で、役目を終えてひどくくたびれて見えた。幼稚園で作った万華鏡みたいな切り紙があまりに綺麗で、扉のガラスに貼ったが最後、それなら私もと競争するように三人で貼りまくり、トンネルの落書きみたいになっていったのだ。喧嘩して妹が足でガラスを蹴り割ったという恐怖の思い出もあったり、扉一つとっても歌が何曲もできそう。
実家の片付けをしながら、いろんなものを発見した。例えば祖父母や父を相手にやっていた「喫茶くみこ」のメニュー。一杯十五円のかき氷のシロップは母に買ってもらったいちご味とメロン味だ。きれたら梅酒、カルピス、みかんジュース、砂糖、家にあるもんを何でもかける。それに対抗して姉がお洒落なフローズン屋を開業、焼きおにぎりまで売り出したり。ついにチャージ制を始めたが、スタンプカードの右端に小さく「一年で無効になります」と書いていたりしていて笑える。貯まったお金は、お賽銭箱型の貯金箱に入れたままだ。
七人で座っていた食卓、おしゃべりな私は「黙って食べなさい」と祖父にいつも怒られた。農繁期に泥だらけで帰ってきて玄関に腰掛け「おーい、久美子さんジュースとって」という祖父の声。冷蔵庫をあけると農協が出している小さい缶ジュースがよく冷えていて「みかん? ぶどう? もも?」と尋ねる。みかん農家なのに大体「みかーん」と返ってくる。みかんジュースを飲み干すと、立ち上がって網戸を開けてまた田畑へいった。
蛙の声が、蟬に変わり、鈴虫になり、そしていつの日か、家の上に大きな工場ができて車の音しか聞こえなくなった。
江戸の末期から鎮座するこの家は、巨木のように、いろんな変遷をたどってここにある。ここで死にゆく人を、産まれくる人を、変わりゆく田舎をずっと見てきた。
剥がされては運び出される大量の木材。トラックは一日で満杯になり、その代わり台所はがらんどうの骨だけになった。私達の先祖がここへ来たときの声が聞こえるようだった。大工さんが帰ったあと、真っ暗なもう部屋じゃない部屋に懐中電灯をもって行ってみる。露わになった床下の土は、カビ臭さも混ざって、私の知らない匂いがした。圧縮袋に入れた布団を出したときみたいに、むくむくと膨らむさまざまな時代の匂い。天井を見上げると、太い太い梁、それに竹と藁で組まれた土壁も見える。私の曾祖父さんや、祖父、親戚みんなで手作りで建てたのだと父が言った。これらは表に出す設計にしてもらった。
床下の土は、つかの間、数十年ぶりの日光浴をすると、数日後コンクリートで蓋をされた。黙って柱や私達家族を支え続けてくれた土。神様がいるとすれば、このカビ臭い土の中にいる気がした。
私がこの家で喫茶くみこをやっていたときの口癖が「一生のお願い!」だった。どうしてもファミコンを続けたいとき、寒くてこたつから出たくないとき、スイミングスクールを休みたいとき、私は「一生のお願い!」を連発した。
「あんた、そんなに簡単に一生のお願いを使われんの! オオカミ少年になるよ!」と母に叱られ、徐々に言わなくなったけど、あの時期周りの子どもも決まって「一生のお願い!」と言って手を合わせた。「一生」がこんなに長いことも、あっけないことも知らなくて、私達は無邪気に手を合わせた。
甥が生まれて、祖父が亡くなって、私は勝手に大人にされた。成人式をしたときよりも、上京したときよりも、失恋したときよりも、世代が変わることを実感した日、私は大人にされた。
ああ、大人ってなるもんじゃないんだなと思った。人生エレベーターは問答無用に上階へ上がる。神様に手を合わせて「一生のお願い!」をしたって、それだけは叶わないんだと知った。
何十年も封印していたというのに、去年ふいに「一生のお願い!」と言っている自分がいて、びっくりした。しかも一月に二回も。今まですっかり忘れていた言葉だったのに、なんで去年になっていきなりポーンと出てきたんかは、わからない。
それも、大したことないお願い。一つは、友達の仕事場で見かけた無料ポストカードが可愛くて、どうしてもほしくてもらってきてもらうためのお願い。もう一つは、テレビの大相撲中継にゲスト出演することになり、一人で行くのが心細いからついてきてというお願い。「お金貸して」とか「追われている。かくまって」とか、一大事にこそ威力を発揮する言葉なんだろうけど、そういうときこそ使ってはならない言葉でもある。
仮の台所が駐車場に設置されると「ここ気に入ったわー。キャンプみたい。もうここでええかも」とぬかしよる母。でもその気持わかる。外に出された食卓に大工さんたちと座って、お昼ご飯も晩御飯もみんな一緒に食べる。
「毎日全員のご飯をするのは大変だろうから外食にしてもらったら?」と父は言ったが、「今さら何言うとるん。今まで何十人前作ってきたと思とるん」と母は笑った。「同じ家におるのに別々の物を食べて他人みたいにしとる方がしんどいわ」とも。
私も全く同感だった。
トラックも猿も往来する細い道の前、私の家はある。
エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調の作家・作詞家の高橋久美子さんの新しい連載エッセイがスタートします! 彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかに描きます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載です。毎月第4水曜日の更新になります。