全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!
◆さわや書店ホームページ http://books-sawaya.co.jp/
◆さわや書店フェザン店ツイッター https://twitter.com/SAWAYA_fezan
■2008年の2つの「あの日」
自分を殺した「あの日」を境に、いつの間にか自力で物事を解決する力が低下していた。店長になることが決まってから、5月の開店にむけて準備をしなければならない状況に直面し局面、局面で判断を迫られるたびにそう感じる。でもそれは、以前の自分を美化しているからかもしれず、実のところ本当にそうであるかどうか自信はない。
船頭多くして船山に上る。
金言ではないだろうか。さわや書店という小さな船でも、方向性を失わないためには「自分」の感情や思惑を押し殺すことが必要だったのだ。最近、「あの日」から今までの日々を振り返ることが多くなった。
「あの日」の始まりは、それより少し時をさかのぼった「もう一つのあの日」に起因する。確信をもって先の先まで見通し、危機を事前に察知して、船に大きな釣果をもたらしてきた存在の喪失。背中を追いかけ続けた「船頭」伊藤清彦・元さわや書店本店店長を2008年10月に僕たちは失った。
皆を導く強烈な個性がいなくなった後、間をおかずに顕在化した諸問題に、僕たちは頭を抱えたまま右往左往していた。竹内敦、栗澤順一、田口幹人、そして僕。有志4人で声を掛け合い、とりあえず集まっては見たものの堂々巡りの不毛な議論が続いていた。
当時のフェザン店には、伊藤店長よりいくつか年齢が下の大池隆店長がいた。大池さんは好々爺然とした雰囲気を纏い、皆に愛される人格者である。伊藤店長が去った後、しばらくは大池さんを旗振り役として伊藤店長の穴を埋めようと一丸となってやっていたが、いかんせん当時大池さんが就いていたフェザン店店長の業務は、駅ビル内の立地ということもあり多忙すぎた。会社全体のかじ取りとの両立はどう考えても無理な話で、組織図を見直す必要に迫られていた。10ほどの支店からなる「株式会社さわや書店」を把握して方向性を決めるためには、全体を俯瞰する業務に重きを置かなければならないだろうというのが、社員全員の一致した見解だった。
つまり、大池さんに求められた役割は店内の「売り場」に関わることは一部に止め、各支店のウリやコンセプトを把握したうえで「株式会社さわや書店」として、どこを目的地に進むのかという決定をすることである。もしそうなると、現場の手による店の切り盛りは大池さんの仕事の埒外となり、切り離して考える必要がある。その現場で核となる世代の僕ら4人は、自主的に集まってこれからについての話し合いを持ったのだった。
■苦戦する「本店」
当時は、盛岡に大型チェーン店が進出したことによって売上げが急激に目減りした時期だった。一番あおりを食った本店は、最終的に売り上げの半分ほどを持っていかれた。コストカットや利益構造の改革によって利益を死守しようにも、その減り幅が大きすぎて対策が追いついていなかった。この泥船に、これ以上乗っていても沈んでしまうだけだと、早々に下りてゆく先輩も何人かいたが、僕らはそろって残ることを決めた。先を考えての行動ではない。僕らはまだ30代前半で、失敗しても正直ギリギリやり直しがきくだろうという打算も心のどこかにはあったかも知れない。だが、それよりも大きく心を占めていたのは、僕らを引っ張り続けてくれた船頭の後ろ姿だった。一も二もなく残ることを決めた4人だったが、今後について語り合えば語り合うほどに現れるきびしい「現実」を前に、次第に口数も減っていった。
先に、さわや書店は合わせて10店舗ほどあると書いたが、僕が入社した20年ほど前からその店舗数はほとんど増減がない。それは赤沢桂一郎社長が、経営者としてスクラップ&ビルドを意識して繰り返してきたからである。時代にそぐわなくなった不採算店舗は消え、代わりに新店舗が立ち上がるということが幾度かあった。10店舗というと相当な数があるのに、身軽な立ち回りであるように思えるかもしれない。それは、支店のほとんどがスーパーマーケットの一角に、わりあいひっそりと出店していたりするからだ。だからこそ成し得たフットワークの軽さであろう。しかし、そのなかでフェザン店、そして本店および上盛岡店は、合わせると売上の3分の2を占めようという旗艦店であった。僕ら4人は、それぞれが店の2番目の責任者といった立場で、自分が担当する売り場の知識を深めてはいても、売り場の全体に目端を利かせるような働き方をした経験はまだなかった。
田口さんと竹内さんが、大池さんの下でフェザン店の売り上げをイケイケで伸ばす一方、栗澤さんと僕は、伊藤天照大神がお隠れになった後の光の差さない本店でジメジメとした日々を過ごしていた。宴会を催せども天岩戸は開かなかった。そもそも開く前からそこには誰も隠れてはいなかったのだから、ただただ酒を流し込んで宴会は終わった。栗澤さんがいまでも夜な夜な深酒を繰り返すのは当時の名残であると僕は踏んでいる。そんなふうに明暗がくっきりと分かれていた僕ら4人だったが、互いの店の今後を考える話し合いの過程で、話はおのずと主が不在だった上盛岡店をどうすべきであるかという点に集約していった。
■課題だった「上盛岡店」
「盛岡の姜尚中」との異名を持つ栗澤さんは、その日も囁くような声色で見解を述べていた。曰く「この中の誰かが上盛岡店で働くべきではないか」と。半分ぐらい聞き取れなかったが、確かにそのような意味のことを言ったはずだ。
さわや書店本店の2階フロアで資格書、専門書、学習参考書などを担当していた栗澤さんは、1階フロアで一般書を担当する僕とは業務が明確に分かれていた。ゆえに分業はしやすかったのだが、近隣の大型チェーン店の豊富な品揃えによってもっとも打撃を被ったのが、2階フロアだった。それは後に、栗澤さんの運命を大きく変えてゆくことになるのだが、もう少し先で述べる。
栗澤さんの「この中の誰かが……」という指摘は、本店組の僕らに該当するものではなく、フェザン組2人に対して暗に決断を迫る発言だった。つまりは、明確に業務の線引きがされていないフェザン組の竹内さんと田口さんのどちらかが、上盛岡店で働くべきではないかという提案である。2004年、当時の流行の波に乗り遅れまいと、さわや書店初の「郊外店」と位置付けられた上盛岡店。その近くには、さわや書店と同じく地場の書店チェーンであるTの郊外店があった。
直線距離にしておよそ2キロ。自家用車が主たる移動手段である盛岡において、2キロはものの数分で移動できる「お隣りさん」と言っていいぐらいの距離である。あえて「直線距離」と書いたのには理由がある。その当時2店舗間には山があり、街側の住宅街をさわや書店上盛岡店が、山側のベッドタウンをTがというように商圏のすみ分けができており、行き来しようとする際には山を避けて、大きく迂回する必要があった。だが、ベッドタウンから街中へと流れる朝の交通量が問題となり、渋滞を緩和するために山にトンネルを開通させる都市計画が持ち上がり、すでに開通が間近だった。直線道路で結ばれると商圏がかぶってしまい、顧客の奪い合いとなる。
開店以来、苦戦が続いている上盛岡店のテコ入れを誰かがしなければならない。それまで誰も口にはしなかったが、竹内さん、田口さんのどちらかが店長として異動することは既定路線だった。本コラムにも何度か登場し、業界で知らぬ者のいない田口さんについてはもはや説明は不要だろうが、初登場の竹内さんについては、その人となりに多少の説明が必要だろう。