先生の悪口が好きな子どもたち
中高生たちって同じ学校の生徒が何人か集まると、きまって学校の先生の悪口を言い始めます。きっと彼らにとっての鉄板ネタなんでしょう。槍玉(やりだま)に上がりやすいのは、上からモノを言う高慢(こうまん)な先生、生徒の言い分に聞く耳を持たない独善的な先生、授業中に自分の話ばかりする(しかも面白くない)先生、しゃべり方のクセが強すぎる先生、清潔感がない先生……などでしょうか。
子どもが先生のことをまるで不良品みたいに悪く言ってしまうのは、先生のことを十分に「人間」として見てないからでしょう。先生を身分や役割として見ているところがある。だから、先生という仮面の後ろに脆弱(ぜいじゃく)な心を持った人間が横たわっていることが想像できないんだと思います。
でもこれは、先生が生徒ひとりひとりを十分に人間として見ていないことの反作用かもしれません。例えば、朝礼で長話をする校長先生とか、ぜんぜん「私」を見てない。あなたは私に触れてこない言葉を乱発されるばかりなので、知らず知らずのうちに傷つけられているんです。
教育現場の惨状
先生が生徒の「個」に着目できないのは、学校という環境の問題でもあります。
今年の3月に文部科学省の若手職員の発案で始まったという「#教師のバトン」プロジェクト(SNS上に教師らが学校や勤務実態などについて自由に投稿。文科省の説明には、「投稿にあたり、所属長からの許諾(きょだく)等は不要」と明記される)では、教師たちの生の声により、教育現場の惨状が明らかになりました。
試しに私も「#教師のバトン」でツイッター検索してみたのですが、この数日で投稿されたものを読むだけでも、「もう死にたい」「教師には人権がない」「給特法で時間外労働に対価が支払われないのは本当に無理、心折れる」「今日は休憩なしで12時間半働いた」「明日の部活、練習試合だけど、もう行きたくない、死ぬかも」「ある若手男性教諭が女子生徒たちから「死ね、消えろ、キモイから修学旅行についてくるな」という手紙をもらっていた」等々、なかなかしんどい内容が続きます。
先生に生徒ひとりひとりを見ることを求める前に、先生たちの教える環境をどう整えるかを真剣に考え、変えていかない限り、学校の諸状況が改善するとは思えません。
ないがしろにされる先生の「個」
先生たちってきっとあまりに多忙すぎるせいで、日常的に「狂わないために狂わなければならない」状態を強いられています。そして、その半ば狂った先生の影響を子どもたちは受け続けているわけです。
日ごろの部活動のようすを子どもたちから聞いていると、「部員にこれだけの負荷をかけてるんだからオレも頑張らないと」と自分にも限界レベルの負荷をかけ、自分に負荷がかかったときに出る質(たち)の悪いアドレナリンでさらに部員に負荷をかける部活動顧問も珍しくありません。
こういうちょっと狂気の一歩手前みたいな先生が、顧問として日々子どもたちと接していることが、子どもたちにとって良いわけがありません。でも、唯一先生に「個」として見られたのは授業ではなく部活だった、そういう感触を得ている子どもも少なからずいて、だからこそ、部活動が悪いとか先生が悪いとかではなくて、学校という設計そのものを徐々に変えていく必要があると感じます。
学校でなぜ子どもの「個」が顧(かえり)みられないかと言えば、単純に先生が忙しくて余裕がないだけでなく、生徒以前に先生自身の「個」がないがしろにされているからです。
ほとんどの学校には「他の先生と違うことをしてはいけない」という不文律(ふぶんりつ)があります。一部の学校では、それをルールとして実装する動きさえあり、例えば私の家の近くの公立小学校では、宿題点検の時に「生徒にコメントを書いてはいけない」「花丸もつけてはいけない」という決まりがいつからかできてしまいました。先生がやっていいことは「見ました」の印鑑のみらしいのですが、なんて非人間的な取り組みなんだろうと呆(あき)れてしまいます。
なぜそんなルールができたかといえば、「あの先生は花丸してくれたのに」というような不平等感が生徒や保護者間で生まれるとマズいから、らしいんですが、これって誰のためにもならないですよね。
私の感覚からすれば、不平等だー!というクレームが来ても、その都度(つど)反論と説明をちゃんとすればいいじゃないと思うのですが、学校という環境下では人的コストに見合わないのでしょう。このように学校はできるだけ当たり障(さわ)りのない装(よそお)いを整えることで、結果的に子どもに提供する教育の質を落としていきます。そして、先生が「個」として子どもに向き合い、心を通わせる機会を奪うのです。
学校はとにかく集団の秩序を最優先にするので、出る杭(くい)はすぐに打たれてしまいます。そうやって「個」を奪われた先生が、生徒をがんじがらめに集団管理しながら「個性は大切」と講釈を垂れる。そんなイカれた実体が多くの学校にあります。
「学びの場」としての学校の限界
学校の第一の目的は言うまでもなく子どもが「学ぶこと」ですが、残念ながら学校は、十分に「学びの場」としての機能を果たしているとは言い難い状況です。よく、学校があるから塾なんていらないはず、と知った顔で言う人がいるのですが、これは実態がわかっていない人の言い草だと思います。
学校では受験科目の5教科以外に、道徳やら体育やら生徒指導やら、学びの横道みたいのを子どもたちに教えようとします。学校教育は総合的な全人教育の場だからという能書きは理解できるのですが、このせいで子どもたちは学びの焦点が見えにくくなるんです。
その点、塾は余計なことは抜きに学びのエッセンスを子どもに伝えられるから、学びへの感化力は学校の比じゃありません。学校でなくて塾で学びと出会う子どもが多いというのはそういうところだと思います。
浪人して予備校に行って初めて学びと出会う受験生が多い(これを読んでいる人の中にもきっと心あたりのる人がいるでしょう)というのもそういうところで、学校ってのは主要教科以外の科目やら学校行事やら人間関係やらが重すぎるんです。ぜんぜん、学びたい学びに集中できません。だから、学校から離れて、軽やかに学ぶ場と出会うことで初めて、すくすくと学力的成長をとげる子どもたちを私はこれまでにたくさん見てきました。
うまく教育「される」こと
教える職業の人たちって子どもに「どうやって教えるか」ばかりを考えがちですが、こういう議論って見たくないものを見ようとしていないとしか思えないんです。なぜなら、教育の成果って、いかにすぐれた教育を施(ほどこ)すか、ではなく、どれほどにうまく教育されるか、という「され方」のほうにかかっているのですから。
その意味で、授業の肝を「教え方」だと思っている教師は、「わかりやすい先生」にはなれるけど、その先がないですよ。授業が本当に面白い先生は偶然を拾うのが上手で、しかもそれが授業の肝としかいいようがなく、そのスキルは研究授業などではなかなか見えてきません。
近年は子どもの「自主性を伸ばす」ことがますます大切だと喧伝(けんでん)されていますが、自主性というのは、環境とウマが合ったときに、子どもに欲望の火がついた状態のことを言うのでしょう。つまり、教育の「され方」がうまくいっているときに、自主性は生まれやすいのです。