2021年10月4日、岸田文雄新内閣が発足した。
もとはといえば、政権発足から約一年たった菅義偉内閣の支持率が危険水域の30%を割るところまで下がったのが発端である。菅では衆院選が戦えないとの危機感が党内に広がり、9月3日、菅は自民党総裁選には出馬しないと表明。四人の立候補者(岸田文雄、河野太郎、高市早苗、野田聖子)による総裁選(9月29日)が行われ、決選投票の結果、岸田が勝利したのだった。
ただ、せっかく表紙を変えたのに、岸田新内閣の船出はパッとしない。各社世論調査の内閣支持率は、朝日新聞45%、毎日新聞四49%、読売新聞56%。菅内閣発足時の65%(朝日)、64%(毎日)よりはるかに低く、いわゆるご祝儀相場は作動しなかった。もっとも不支持率も低めで、朝日では不支持20%に対し「その他・答えない」が35%。「選挙までのつなぎ」の側面は否めないにしても、要は岸田文雄の人物像も、新内閣の性格もよくわからない、というのが多くの人の本音だろう。
自ら日程を前倒しにした衆院選(10月31日)も間近である。彼はどんな政治家なのか、政敵たちの著書も含めて読んでみた。
岸田ビジョンは安倍や菅とは逆の方向
岸田文雄『岸田ビジョン――分断から協調へ』は20年9月刊。昨年の安倍元首相辞任表明の直後、総裁選(結果は大差で菅に敗北)を睨んで出版された本と思われる。10月中には同名の改訂新書版(講談社+α新書)が発売の予定だが、内容は大差なしであろうと判断し、今回はこちらを読んでみたい。
〈格差の少ない豊かな社会。/差別のない、多様性と個性を重んじる社会。/失敗してもやり直しの効く社会。/平和で安心して暮らせる社会。/こうした社会の実現を阻む数々の壁をぶち壊していきたい――私は被爆地・広島、平和の街・広島から、政治を志しました〉。こんな書きだしで本書ははじまる。〈平成が終わり、令和を迎えたいまこそ、「寛容」、「忍耐」、「平和」、「経済重視」といった宏池会の考え方が必要とされるのではないか〉。
全体の感想を先にいえば、まァ、ぼやーっとした本ではある。総花式、または可もなし不可もなし。目玉も個性もあまりない。ただ「不可もなし」なのは、不可だらけだった安倍晋三や菅義偉に比べたら、ずいぶんマシとはいえるだろう。
岸田が会長を務める「宏池会」は1957年に池田勇人が立ち上げた派閥で、池田のほか、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一という四人の首相を輩出している(うち池田と宮澤は岸田と同じ広島県出身)。リベラル保守を標榜し、戦後の保守本流として「軽武装・経済重視」の路線を牽引してきた。とはいえそれも二〇世紀までの話で、森喜朗首相の不信任案に加藤紘一が賛成しようとして挫折した「加藤の乱」(2000年)で分裂、以後勢力は衰えた。岸田は宮澤以来、三〇年ぶりの宏池会出の首相なのだ。
そんな宏池会の残滓を引きずる岸田の政策は、小泉純一郎から安倍・菅へとつながる新自由主義路線とは一線を画している。
金融緩和、財政出動、成長戦略を三本柱とする「アベノミクス」を評価しつつも〈とはいえ、未来永劫、「アベノミクス」でいいのか〉と彼は問う。〈アベノミクスが始まった当初、「トリクルダウン」ということが盛んに言われました。まず大企業から先に業績を回復させ、それによって下請けの中小企業や、臨時雇いの非正規の人たちの収入も上がる、という考え方です。しかし、残念ながら、「トリクルダウン」の現象はまだ観察されていないと言わなければなりません〉。〈アベノミクスのもとで増えた富は、誰の手にわたっているのか。一部の人だけがおいしい思いをしているのではないか〉という疑念を払拭するには〈中間層を産み支える政策、社会全体の富の再配分を促す政策が必要です〉。
やや具体性を欠くものの、格差の是正と「中間層の底上げ」を図る政策としては、奨学金制度の拡充、家賃補助や住宅手当、ベースアップの促進、最低賃金の引き上げなどを上げ、また中小企業への公正な利益配分が行われる制度や、地域の小規模事業者を支えるしくみも作りたいと述べている。
10月8日の所信表明演説でも「私が目指すのは、新しい資本主義の実現です」と述べ、「富めるものと、富まざるものとの深刻な分断」を生んだ「新自由主義的な政策の弊害」に言及した岸田。「自助・共助・公助」で顰蹙を買った菅とは逆の方向性である。
もう一点、広島が選挙区の岸田が〈私にとってもっとも大事な譲れないポイント〉と述べるのは「核軍縮」だ。これについては同時期に出た『核兵器のない世界へ――勇気ある平和国家の志』(日経BP)に詳しいが、本書でも〈宏池会は、憲法九条の平和主義を大切にしながら、他方で、我が国をめぐる厳しい国際社会の状況のなかで国民の命や暮らしをどう守っていくか、憲法九条と現実の狭間を埋めることに汗をかき、努力してきた政策集団です〉と述べ、憲法を露骨に軽視した安倍とは異なる立場を見せる。
と書くと、いいような感じがしてくるが……。
評価の前に、別の本に寄り道しておきたい。総裁選時、人気は岸田以上とされた河野太郎の『日本を先に進める』である。21年9月刊。総裁選に立つことを想定して出版されたのかもしれない。
しかし私の感想は「この人が首相にならなくてよかったよ」に尽きる。彼は(少なくとも現在は)総理大臣を目指す器ではない。外交、安全保障、防災、エネルギー政策、社会保障などについて一応述べてはいるが、彼は社会の効率化と制度の改革にしか興味がなく、枝葉末節にはこだわるが、大きなビジョンはべつになく、経済政策も手薄。このコロナ下で〈積極的な医療コスト削減を〉と訴えているようでは話にならない。
以上、寄り道終わり。次、野党第一党の党首の本。
岸田も枝野も脱新自由主義&再分配
立憲民主党代表・枝野幸男の『枝野ビジョン――支え合う日本』は21年5月刊。図らずも岸田の著書と瓜二つのタイトルのこの本は、中身も『岸田ビジョン』と重なるところがある。
まず自分の立ち位置は「保守」で「リベラル」だと標榜している点からして宏池会の末裔のよう。経済政策も似通っている。
〈金融緩和、財政出動そして規制緩和という「三本の矢」は、一時的で限定的な経済政策としては間違っていないが、本質的、抜本的な効果にはつながらなかった。潜在的な需要や投資意欲が不足しているからだ〉。〈結果的に、それは経済政策として限界を露呈しただけでなく、格差を広げ、社会に分断と利己主義を広げてしまった〉。枝野もまた「脱新自由主義」なのだ。
「支え合いと分かち合い」を掲げる枝野の経済政策の柱は、低所得者層の下支えである。〈低所得者層の所得が底上げされれば、すぐに消費にまわり、通貨が出回るスピードは上がって経済成長につながる。逆に、富裕層をさらに豊かにしても消費にはつながりにくく、相対的に経済成長に与える効果は小さい〉からだ。
そして、枝野もいうのである。〈だから私は、政府による再分配機能を高め、非正規を正規に転換するなどして雇用の安定を図り、分厚い中間層を取り戻すことを目指す〉。
格差が広がりすぎた現在、「脱新自由主義」はすでに世界のトレンドだが、それにしたって岸田も枝野も再分配。
両者の違いは、中間層優先か、低所得者層優先かであろう。枝野の政策はかなり具体的で、手始めに低賃金・重労働の〈公的サービスに従事する比較的低賃金の皆さんの賃金を引き上げていく〉という。看護師、保育士、介護職員、学童保育の指導員、非正規雇用が多いハローワークの職員や消費生活相談員、人手不足の児童相談所や労働基準監督署の職員……。賃金アップと正規雇用化の促進には〈公的な財政支出を増やす必要があるが、最優先で財源を振り向けていく〉。さらに〈「政府は小さいほど良い」「公務員は少ないほど良い」というのは、現在の日本社会ではもはや時代遅れだ。私はそのことを明確に訴えていく〉。
おおー、枝野幸男の口からこんな言葉が出てくるとは!
旧民主党政権(09〜12年)時代の失敗や、その後の野党のだらしなさにヤキモキしていた身としては「やっとかよ」「もっと早く気づかんかい」とは思うけど、そのことは本人も自覚しているようで、〈野党になった自民党から「バラマキだ」と批判されると、その批判に過剰にひるんでしまったり、本質からずれた言い訳に終始したりすることになった〉。〈よく考えれば、「第二自民党」を作っても、それより経験も地方組織とのなじみもある「第一の自民党」の方が支持されてしまう〉。
当たり前である。衆院選に向けた立憲民主の公約や、野党連合(立憲民主党、共産党、社民党、れいわ新選組)が合意した共通政策も、消費減税などを含む相当踏みこんだもので、これなら期待が持てるかもと思ったのだが……。枝野ないし野党連合にとっての誤算は、戦う相手が新自由主義者の菅ではなく、政策的には同じ方向性の岸田になってしまったことだろう。
ただ、もっかの岸田は人事の面から「安倍の傀儡」に認定され、発言をかなりトーンダウンさせている。安倍・菅時代の不正を再調査する気もなく、九条改憲にも当然前向き、核兵器廃絶条約に調印する力もない(『核兵器のない世界へ』を読むとわかる)。だが、首相就任早々公示日を早めたのは戦略家の一面をうかがわせる。「新しい資本主義なんて口先だけ」「中身は古い自民党のまま」という批判のみで野党は与党を倒せるのか。敵は手強いと言わざるを得ない。
【この記事で紹介された本】
『岸田ビジョン――分断から協調へ』
岸田文雄、講談社、2020年、1760円(税込)
〈「リーダーは、人を輝かせるためにある」〉(帯より)。著者は一九五七年生まれ。父・文武の秘書を経て九三年、衆院選で初当選(広島一区)。「聞く力」が大切だ、経済や社会の分断を協調に変えたいなど、総裁選や所信表明演説で語っていた内容とほぼ同じ。ただ、党内を慮ってか、宏池会へのリスペクトや自身の主張は抑え気味。読み物として興味深いのは「加藤の乱」の裏話だけ?
『日本を前に進める』
河野太郎、PHP新書、2021年、990円(税込)
〈温もりのある国へ〉(帯より)。著者は一九六三年生まれ。父の洋平には出馬を反対されるも、九六年、衆院選で初当選(神奈川一五区)。自身の青春時代や父への生体肝移植などについて語った序盤は読めないこともないが、政策の話は軽重も優先順位もめちゃめちゃで、どうしたいのかよくわからない。原発とエネルギー政策についての結論も不明。自慢話がしたいらしいのは理解した。
『枝野ビジョン――支え合う日本』
枝野幸男、文春新書、2021年、935円(税込)
〈「自助」を強いる社会に未来はない〉(帯より)。著者は一九六四年生まれ。九三年、日本新党より立候補して衆院選に初当選(埼玉五区)。菅直人内閣で官房長官を務めた旧民主党政権時代の反省点に言及。政策提言の大部分は、再分配や成長戦略などの経済政策。「保守」や「リベラル」の定義にこだわるなど無駄に理屈っぽい部分も多いが、執筆に七年かけただけあり密度は濃い。