最近、古いドラマの『早春スケッチブック』を観ている。オープニングの演出が示唆的で、おだやかな郊外の日常風景に一瞬だけ倉田精二のいかがわしい写真が挟み込まれる。
まだ途中までしか観てないけれど、山崎努演じる写真家沢田が「お前ら骨の髄までありきたりだ!」と吼える場面がある。
会社勤めの親父がおって(その親父は作中さんざん情けなく描写されている)、奥さんがおって、普通に受験勉強する高校生の主人公の家庭に、なんかこう沢田は屈託があるらしい。この言葉が引っかかったのか真面目な主人公は、ふと試験をボイコットしてしまい落伍することに人生の実感を得る。
実のところ会社勤めほど非凡で予測不能の生活は無いと思うし、脚本の山田太一も、むしろ芸術家より庶民のかなしみに目を向ける人だと分かったのは、彼が編んだアンソロジー『生きるかなしみ』(ちくま文庫)を読んだからで、はじめの「断念するということ」という文章にこんな言葉があった。
〈大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか?/私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?/本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。〉
よくTwitterで「わたい人と違った生き方してまんねん」とか「好きな事して生きてます」とか、そんなような主張があると、どれどれ何をやってる方ですか。と興味を持つのだけど「残念やわ」とミュートしてしまう。大抵、出世とか成功とかに価値を置いている人ばかりで、有名になって稼ごうとしている感じがなんかこう胡散臭い。
「自分をモデルに仏像を彫って完成する前に叩き割ってます」とか「最も美味しい石を探して全国を放浪してます」とか、それくらい無意味だと、人と違うなと思う。
世の中の芸術家と呼ばれている人も、テレビの密着とかを見てると金を稼ぐのが上手い奴らだなと思う。自分も漫画家なので時々、天才様と褒められることがあって、そんな時は「どうですか。まあ正味、人より鋭い感性持ってるかもしれまへんわ」みたいな感じを出している。それで金を稼いで、ありきたりじゃない感じを出しているのが恥ずかしい。沢田も芸術に身を捧げていることを息子に言いすぎてる節があって、なんか恥ずかしい奴に思えてきた。
芸術をやってなくても社会にうまく馴染めなくて生きづらい人というのは当然いる。「平凡な人生は嫌だね」と沢田みたいなことを言うている人がいた。だからと言って何かやりたいことも無いらしい。ときとして落伍すること自体にアイデンティティを見いだしてしまってアウトローを気取る人もいる。「酒とか賭博とか異性とかに身をもちくずしてその経験を自虐的にネタにする」という平凡に帰結したり、「自分がいかに人と違うか」を誰もがやっているSNSで主張する凡庸っぷりは骨の髄までありきたりだ。
放蕩するダメな自分を肯定し独自性を求めるなら芸をなめてくださるなと思うし、芸をつかさどる言葉の研鑽に取り組まないならもう働くかふるさとに帰ったらええし、ふるさとに居るなら、あんま変なことせんと、じっとしとったらええし、近代文学には屑人間がよく出てくるけど、ああいう作家たちは地道な裏の習練を隠すところがあるので、そこを履き違えて無頼に感化された単なる不真面目が過去の自分も含めてこの百年に何万人いただろう。「夢」とか「成功」とか、自己啓発書的な言葉を掲げたり、効率的な生き方をしているんだい。と、ことさら主張したい者と真逆のようで実はほとんど変わらないと思うのは、根底にある「俺」とか「私」が強くてそれがうざいからやと思いながら、漫画家もそうやって金を稼がなあかんわけだ。それでまた話は枝路に入りますけども、自分や他人の「私」がうざくなると放浪したくなる。松尾芭蕉や種田山頭火の俳句とか、つげ義春の漫画とか風景に自分を溶け込ます感じが気色よい。個性なくしの旅ですな。気温も丁度よいし来週あたり、近畿を放浪してみようかしら。個性を活かすことをもてはやされたのがゆとり世代だと言われていたらしいが……ところで前まで自分はゆとり世代だったのにいつの間にかさとり世代になって、最近ではZ世代と言われだした。結局そんなもん無いらしい。何にでも名前やイメージを付与すると儲かる人々が居るみたいで、だから何を言いたいかというと、(とは言いつつ、結局、何を言いたかったのかとっくの昔に忘れてしまいました。読者の方々にはご迷惑をおかけしますが、もう少し辛抱してください)つまりテレビ的な極端な言葉……夢も希望も絆も、ダメ人間も分かりやすい個性も、すぐに商業に回収されて消費されるゴミみたいなもんで。まったくかなしみなので、つくられた分かりやすい個性なんて「おもろな。木っ片」と一蹴してくれろ。人間の矛盾や中途半端や、金にならない分かりにくさを信じたい。有名になりたいとか、成功者になりたいとか、そんなありきたりの貧しさの前にある切実な日常に向き合ったとき、見落としていた人生のおもろみを山田太一の言葉はすくいとっていた。自分の漫画もそんな風に描けたらええなとは思う。