まず最初に書いておきたいことだが、氷室冴子さんというのはわたしにとって特別な存在である。
わたしは思春期の頃、氷室作品を支えとして生きていた。主人公たちはわたしの憧れだった。高潔で、芯が通っていて、まなざしがうつくしくて、そしてとても優しい。苦しいともがき泣くこともあるし、逃げ出すこともある。しかし必ず、自分の足で立ちあがり、前に進む。友の弱さ狡さを叱咤し、共に悩み嘆き、そして決して見放さない。わたしもかくありたいと願って生きていた。
氷室作品の魅力を語りだすと文字数が到底足りないのでそれはいつかの機会にしておいて、今回は、彼女の作品の根低には常に「愛」があるということに触れたい。どの作品にも、ひとに対する深く熱い愛情がある。醜い感情や愚かな行為を描いても、同時にひととしての哀しみや憐れがあり、どこかで受け入れ、赦している。そのありのままを認める大らかな愛は、未熟で自分の感情の処し方も上手くない思春期の人間にぴったりと寄り添い、決して裏切らなかった。どれだけ自分を疎む感情に翻弄されていても、氷室作品の世界に潜り込めば、心が凪いだ。あの愛が、当時の私を救ったのだと思う。
どんな人がこんな物語を紡げるのだろうか。当時のわたしは文庫巻末のあとがきやエッセイを読んでは、氷室冴子さんを知ろうとした。本作は一九九二年に単行本として刊行されており、わたしは十二歳だったのだが、もちろん読んだ。そして残念なことに、表面的にしか読めなかったのを、苦く覚えている。当時三十五歳だった氷室さんの心のさざ波に共感するにはわたしは幼すぎ、あまりにも世間を知らなかったのだ。いつか理解する日が来るのだろうか、と遠い未来を思い描きながら、本を閉じた。
今回、改めて読む機会を得て、正直なところ戸惑った。まず、わたしが四十を過ぎてしまったこと。執筆当時の氷室さんを追い越しているのだ。そして、本作が約三十年前の作品であるということ。例えば ―― 本当に例えば、氷室さんの言葉に幼さを感じてしまったら。感覚の古さ、時代感覚のズレなど感じてしまったら。それらが重なりあうことで、わたしが長年大切にしてきた氷室冴子像が崩れてしまうのではないか、そんな下らないことを考えて逡巡してしまったのだ。
本当に、愚かだった。わたしの愛した作家を、どうしてそんな風に思えたのか。驕ってしまっていた自分を恥じた。
研ぎ澄まされた感覚を持つ、瑞々しい作家の視線があった。持って生まれた「性」に思い巡らせる、生命力に溢れた女性がいた。いまこのときだからこそ文字にして欲しかった感情が、散りばめられていた。
まず取り上げたいのが、「わかる」という言葉から広がる思考。
「私たちはふだん、友人だから、女同士だから、親子だから、恋人だからという理由で、相手の何かをわかった気になっているけれど、それ自体は、なんの根拠にもならないのだということ」(「一番とおい他人について」)
わたしもよく使ってしまう言葉だ。ばっちり、「共感」というあやふやなものを乱暴にかたちづけて使っていた。ざくっと斬りつけられたような思いで読んだが、氷室さんの思考はそこに留まらず、もっと奥にまで進む。
「「女は」という一般名詞は、未知の他人に対して、当然持つはずの距離感を失わせてしまってはいないか」
この一文には、女である者として、また文章を生業にする者としても、ぞくりとした。「わかる」つもりで「女は」という大きすぎる括りの話を無頓着にしてはいなかったか。そして、その強い言葉の裏に傷つくひとの存在など、想像だにしていなかったのではないか。
この視線は、氷室さん自身の資質であるのはもちろんだが、しかし、年代も大きく関わっているだろう。九〇年代はいまよりももっと、女性が活躍するには息苦しいものがあった。まえがきだけでも、氷室さんの前に立ちはだかった壁の一端が伝わってきて、腹だたしくなる。彼女はわたしが想像するよりもたくさんの、「女は」という括りに傷つき苦しんできたのだろう。その経験が、視線を鋭くしていったのだと思う。
そして氷室さんは、本作で伝えようとした。抗いようのない「女」を突き付けられたときの無力さ、世界から断絶されるほどの絶対的な孤独が、どれだけひとの心を殺すか。
「名も個性も剥ぎとられ、ただ女である一点に向けて暗闇から放射される無記名の悪意を、沈黙の中で甘受している誰かの傷と怒りは、確かにあるのに」(「それは決して『ミザリー』ではない」)
放心してしまった一文だった。この言葉の持つ力は、年数などでは決して薄れな
い。傷つく誰かがいる限り、血を吹いた心に寄り添い続けるだろう。それはきっといまも、そしてこれからも。
しかし氷室さんは「女」であることをただ憂いているわけではない。九〇年代の日々を「女」として豊かな愛と共に溌剌と過ごしている。
氷室さんの愛は、光のようだ。愛してる、好きだよと臆面もなくさらりと言える。あけすけでまっすぐな思いの伝え方は ―― 気になる男性には可愛らしい駆け引きなどもしただろうけれど ―― 素直で情熱的で温かくて、愛おしさを覚えてしまう。
「ばかばかしくくだらない、でも楽しい、少なくとも楽しくしようとふたりで努力する限られた時間。それが記憶に残って、また何年も私たちを幸福にするためのなにかがあるはずではなかったの、と」(「詠嘆なんか大嫌い」)
このくだりは特に身悶えした。氷室さんは小さな思い出を輝く宝石に変えて、ずっと抱えてくれる。私の中にはあなたという存在が輝いていて、私はそれを眺めて幸福になれるのよ、ときっぱり言えるひとなのだ。それを、恋人ではなく、友人に。
作中では、友人たちは氷室さんの思いを感じ取ることはないままだったけれど、しかし氷室さんはその宝石をつくろうとすることを決してあきらめはしなかった。きっと、豊かな宝石箱を抱え続けただろうと思う。
こんなひとだから、作品に愛が溢れるのだ。読み手側にまでしっかと伝わるほどの熱がある。わたしは作品を通して、確かに、氷室冴子さんの愛に触れていたのだ。寄り添ってくれるのも、当然のことだった。
わたしからしてみれば、彼女の愛し方というのは最上だ。けれど氷室さんは言う。
「愛し方を覚えなくては。愛され方だけをとぎすませてゆくのではなくて」(「夢の家で暮らすために」)
うつくしさは、手を抜けばくすむ。自信は、無意識に傲慢になる。愛は、バランスを欠けばかたちを成さない。
なんと綺麗な、素敵なひとなのだろう。その魅力にくらくらするしかない。
そんな女性がときどきに自分にかけるおまじないが「あたしもいっぱしの女なんだから」。なんとも可愛らしい、ユーモアのある優しい言葉だ。わたしも呟いてみて、思わず笑った。もう、いっぱしの女だから。なるほど。これは、いい。こそばゆく、面映ゆく、ほんの少しの余裕をくれる。これからわたしも、躓いたときに自分にささやきかけよう。同じように自分を奮起させてきた女性を思い出しながら、何度も。
最後になるけれど、もっともっと、彼女の紡ぐ物語に触れたかったと思っている。物語でなくてもいい。彼女のまなざしの先や、そこにのった感情に触れたかった。それが叶わないことが、ただただ寂しい。
しかし、氷室さんの作品は残っている。時代も歳月も、一切彼女の愛を、才を損なわない。いまなお輝くものばかりだ。だから、このエッセイを読んで、その人柄に何か受け取るものがあった方はぜひ、他の作品にも触れて欲しい。作品のそこに光る、彼女の欠片を見つけて欲しいと心から願う。