「生きてるだけで、愛。」を初めて読んだのは文庫本が発行されてから間もない頃だった。
暫くまともに連絡をとっていなかった姉から、「この本の主人公が薫っぽかった。」と連絡がきたのだ。
ほかに何の前情報もないまま、主人公が自分っぽいらしいという興味から本屋で購入して一気に読んだ。
昔から、自分は浮いているように感じる場面が多かった。それは決して自分が特別な存在だとかそういう優越感ではなく、
「なんでお前みたいなのがここに当たり前のような顔して居座ってんだ」
と頭の中で誰かに言われているような感覚だった。
同時に、何かの一員になる、仲間になる、苦楽を共にする人間関係を築くことは自分にとって不可能なこととして憧れがあった。
はじめのうちは比較的うまくやれる。だけど少しずつ自分の中で歯車がかみ合わなくなって、ある日何もかも無理になる。
3歳から通っていたクラシックバレエも、14歳の年にあった発表会を目前に教室へ入ることができなくなり、発表会当日は客席で他の子たちの踊りを泣きながら鑑賞した。
なぜ今自分は舞台ではなく客席にいるのか自分でもよく分からなかった。そのまま11年続けていたバレエを辞めた。
中学も途中から疎らにしか通えなくなり、高校に至っては最初の週にあったクラス親睦旅行の次の日から不登校になりそのまま辞めた。
どれも理由という理由はなく、ただ行かなければ、通わなければと動けない自分と毎回全力で格闘してはいた。
芸能活動を始めて、摂食障害になってからはいっそう頭の中の声が強くなった。
3つ上の姉は昔から喜怒哀楽が判りづらかったが、ずっと穏やかで優しかった。何を言っても怒らないので喧嘩をした記憶はなく、泣いたところを見た記憶もない。
大学まで学校へ通い、その後会社へ就職し現在は結婚して子供がいる。昔から友達も多く彼氏もいた。
生活が上手い。少なくとも私にはそう映っていた。姉からすれば私の行動は意味不明で超絶ダメ人間に見えているだろうと思っていた。
姉のことが大好きだったものの人間として理解はできず、距離感と劣等感があった。
「あたしはさ、あたしとは別れられないんだよね一生」「いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなあ」という寧子の言葉。
自分と別れたい。死にたいのではなく自分を辞めたい、それは自分自身ずっと思っていたことだった。けれど文章で突きつけられると改めて傷付いた。
そして、嘘みたいに日々淡々と生きているかのように映る津奈木が、どんどん姉に思えてきて仕方がなかった。
本編の最後に津奈木が寧子にかけた「本当はちゃんと分かりたかったよ」という言葉も、自分が姉にかけられた言葉のように受け取った。
それは私の一方的な思い込みだったとしても、なぜか姉に近づけたように感じた。
自分自身も意味の分からない自分を誰からも分かってもらえなくとも、「分かりたい」と誰かに思ってもらえることで、もう十分に思う。
分かりたいと誰かに思われたい。そして自分も人をちゃんと分かりたいと思いたい。
私が今絵を描いている理由もそれが大きいように感じます。