いきつけのお寿司屋さんがあった。回転寿司ではないけど高級なお店というわけでもない。このお店のお寿司が美味しいのはもちろんだけど、シャリの味と食感がたまらなく好きだった。このお寿司屋さんを誰かにおすすめするときに「あそこはシャリが美味しいんだよ。」とポッと出のグルメ通のようなことを恥をしのんでいっていた。
なによりも80代であろう大将のことがとても好きだったのだ。さっきから過去形なのは、残念ながらついさいきんお店を畳んでしまったからだ。コロナによる影響で客足が減ったのか、それとも大将になにかあったのか心配だ。
大将はぼくによくお金の話をしてくれた。「一万円札がいつできたか知ってるか?」から大将のお金の授業がはじまる。ぼくは答えを知っている。一万円札が発行されたのは昭和33年の東京タワーが開業した年とおなじだ。
なぜ答えを知っているかといえば、東京タワーのくだりまで何度もこの話を聞いているからだ。でも知らないフリをして、初めて聞くような鮮度の高い態度をとる。これが大人のマナーであり、相手に好かれる技術でもある。
昭和33年は大卒初任給が1万3000円ぐらいで、山手線の初乗りが10円という時代だ。一万円札はかなりの高額紙幣で、現在なら20万円ちかい価値があったそうだ。大将のご実家は地方で事業をしていて、企業間取引や仕入れのため金庫にはいつも100万円があったそうだ。現在なら2000万円ちかい価値の金額が金庫に入っていた。
ただここで問題が発生する。金庫を管理していた大将のお父さんが、急に亡くなられて金庫が開かなくなってしまったのだ。それから30年ほどの時が経ち、ついに開かずの金庫がプロの手によって開くことになった。プロといってもルパン三世みたいな反社的な人ではなく、きっと鍵師とか金庫開け師とかだ。
金庫の中にはもちろん100万円がある。でも時間が経ち昭和は終わり、時代は平成になっている。平成初期と令和初期の現在でも大卒初任給に大きな差はない。当たり前だけど100万円は100万円なのだ。金庫にしまったときは2000万円ぐらいの価値があったのに、経済成長によって価値を大きく下げてしまったのだ。
金庫にしまった当時なら2000万円ぐらいのお買い物ができたのに、金庫を開けたときには100万円のお買い物しかできないのだ。そりゃ誰だって悔やむ。経済成長とともに価値が上昇するであろう土地や株、貴金属にしていればよかったと大将は悔やみ、涙を誘う。
ここでワサビをペロッとして涙を流すのも相手に好かれる技術だけど、あきらかに過剰なのでぼくはやらない。
お金の価値は時代や経済状況で変わる。日本はここ30年間、経済成長がなかった。外国は違う、経済成長をして所得がどんどん上がった。所得が上がるから物価も上がる。消費もする、消費をするから所得が上がる。なんという好循環だろう。
10年前と現在ですら、海外にいったときに物価の違いを感じる。アジアを旅行していると10年前なら安いなぁと感じることがよくあったけど、いまでは日本とそんなに変わらないじゃん。と感じることがとても増えた。
お金の価値は時代によって変わる、物価が変われば1万円の価値は変わる。日本は30年間、大卒初任給がほぼ変わっていないけど平均所得はさがり続けている。それでも税金や社会保障費は上がっているから自由に使えるお金、可処分所得が下がっている。1万円が財布に入っていても消費税が10%だから、9000円のお買い物しかできない。
物価は大きく上がってはいないけど、コンビニやスーパーに並ぶ商品はサイズが小さくなっているので、実質的には値上げをしている状態だ。30年前の1000円と現在の1000円では食べられる量が違う。もちろん現在の方が食べられる量が減っている。
60年前に物価も所得もぐんぐん上がった国なのに。現在の日本では安いことが善で、値上げは悪という風潮がある。ぼくが子どもの頃にはずっと夕方のニュースでよく激安スーパーの特集をして、激安が喜ばれていた。消費税が増税するタイミングで自動販売機の商品が値上げをすると便乗値上げだとよく叩かれている。
大人になったいまおもうのは、激安はそんなにいいことじゃないってことだ。うちの近所にも激安スーパーがあるけど、パート求人の時給は最低雇用賃金とまったく同額だ。値引き合戦はみんなでみんなの首を絞めあっているようなものだ。
現在では値段は据え置きで商品にボリュームがあることが善とされる風潮があるけど、きっと仕入れの現場や製造の現場で泣いている人がいるだろう。これが流行になってしまうと、またみんなで首を絞めあうことになりかねない。
安く売ることはいいことではない、だからといってなんでもかんでも高く売ることが善だともおもわない。大切なのは品質に見合った適切な金額で売り買いすることだ。泣く人を減らすには値上げしかないのだ。値下げを善とする人は、自分の給与が下げられることも善なのだろうか? 値上げを悪とする人は、自分の給与が上がることも悪なのだろうか?
金銭的なメリットを自分が享受したいなら、周囲の人みんなに金銭的なメリットを享受してもらうのが正解だ。資本家や宝くじで高額当選でもしないかぎり、メリットの独占はできない。
年末年始になるといつも考えることがある、お年玉のことだ。ぼくは立派なおじさんなので貰う側ではなく、あげる側になる。自分の子どもだろうと親戚の子どもだろうと、お年玉をあげるのがぼくは好きだ。ちなみに立派なおじさんというのは人格的なことじゃなくて、年齢的なだけだ。年齢なんてアホでも重ねるので、ぼくは大した人材じゃない。
お年玉が最高におもしろいのは子どもの1万円と大人の1万円の価値が違うところだ。まったくおなじ時代を生きているのに、貨幣価値の違いが発生する。お金は使う人間によっても価値が変わる。
小学生ぐらいの子どもは1万円で豪遊ができる、例えばお小遣いを月に1000円もらっている子は1年間の所得が1万2000円になる。親戚のおじさんからお年玉で1万円貰えば、年収に匹敵する金額を1日で貰えるのだ。おじさんが豪遊をしようとおもったら20万円はほしい。20万円もあればそれなりの体験も買い物もできる。高校生や大学生になれば1万円でできる豪遊の濃度がすこし薄くなる。
だから子どものお年玉を親が預かるのは危険なのだ。親が銀行になってしまうとさまざまなデメリットが生じる。子どもが何かを買いたくて親からお年玉を返してもらうときに、おそらく使用目的を問われる。そこで親の意に沿わない用途をいえば、反対されたり小言をいわれ、場合によってはお年玉を返してもらえない。ゲームやアプリに課金をしたいなんていえばまずいい顔をされないだろう。
それ、どんなATMだよ。大人が遊びにいくときにATMで小言をいわれたり、用途によって引き出せなかったら、きっとその銀行は解約ラッシュだ。
子どものお年玉を預かって、10年たって大人になって返してもらっても物価上昇や商品のサイズが小さくなっているので、実質的にお年玉の金額が目減りしている。なによりも子どもの頃に年収に匹敵する金額を豪遊するという経験ができない。大人になって年収に匹敵する金額で豪遊をするのはとても難しい。
親は子どもの無駄遣いという失敗を防ぎたいのだろうけど、子どものうちに無駄遣いの失敗を経験させなければ、大人になってうまくお金を使えるとはおもえない。それに無駄遣いかどうかはその人次第だ。大人の買い物だって、子どもからすればだいたい無駄遣いに見える。
親銀行は引き出しにプレゼンが必要で、用途に道徳や正義が求められ、子どもは人生に何度もない無駄遣いという豪遊チャンスを失う。それでいて同級生がお年玉を自由に使えることで格差も生じる。
親銀行にはデメリットだらけでメリットが見当たらない。親が預かった金額と同額を積み立てて、お年玉を倍増して返すなら子どもにまだメリットがあり、お金の運用の勉強にもなるけど、そういうことをする親はきっと少数だろう。ましてや親が子どものお年玉を使い込んでしまったら、ただの横領だ。
時代だけでなくお金を使う立場が違うことでも、貨幣価値が場合によっては20倍の違いが生じることを理解しなければならない。親銀行が開かずの金庫にしてしまうと、大将の実家の金庫の100万円とおなじことで、貨幣価値が20分の1になってしまい大きな後悔を生むのだ。お金のことはなによりもしっかりと勉強しなければいけない。なぜならお金はとても大切だからだ。