ちくま新書

黄金の「地理学」

『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(湯澤規子著)について、藤原辰史さんに書評を書いていただきました。PR誌「ちくま」に掲載されたもののロングバージョンです。この本のいろんな側面がうかびあがってきますので、ぜひご覧くださいませ。


 食と対比して、食の変形にすぎぬ排泄に関わる研究は、それほど分厚くはないだろう、と思っていた。ところが本書を読み、まず驚いたのは、排泄にまつわる参考文献の豊かさ、そして質の高さである。引用される本の一部を紹介しよう。三好春樹『ウンコ・シッコの介護学』、スーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』、藤島茂『トイレット部長』、三俣延子「産業革命期イングランドにおけるナイトソイルの環境経済史」、林望『古今黄金譚』、姫田隼多『名古屋の屎尿市営』、斉藤たま『落し紙以前』、ロナルド・H・ブルーマー『拭く』、渡辺善次郎『都市と農村の間』など、なんとも魅力的なタイトルの本に溢れている。内容豊富なこれらの書籍を集め、読み込み、それらの先に向かおうと試みたのが、本書である。
 はじめに申し上げておきたいが、本書はこれまでの著者の書籍とは打って変わってスタイルがポップである。しかし、本書はかなり深刻な問題提起の書でもある。著者は、人間の排泄物が「汚物」で「忌避すべきもの」である、というのは近代社会の作り上げた構築物だと主張する。それは、都市化が進んで衛生対策が求められ、下水道の整備が進み、化学肥料が登場し、欧米の生野菜を食べる文化がG H Qなどからもたらされ、水洗トイレが普及することで、徐々に構築されてきた。近世社会はもちろん、近代社会の中であっても、排泄物の肥料としての有用性はずっと人びとに意識されていたのであるが、全体的な傾向として、近代都市社会は下水処理施設のいわば「見えない化」に成功したと言える。しかし、見えないままで良いのだろうか。日常の営みをここまで軽視することが、人間を支える微生物、人間を支える食べもの、そしてなによりも人間を支える人間を軽視することに直結するのではないか。本書の問題提起は、およそこのあたりの人間論にまで届く。


 まず、本書には二つの顔があることを申し上げたい。
 一つ目は、現実の変革へと働きかけるアクションとしての顔。どんな現実に対するアクションか。それは、「汚物」の処理の実態を過剰に隠そうとする清潔文化の中にあって、そこに潜む権力性、差別構造さえも隠そうとする現代社会への批判である。
 本来、批判には通常二つの方法がある。一つは、隠蔽の言語ルールに則りながら、そのルールを内側から崩してく方法である。もう一つは、そのルールの外に立ち、正々堂々と真正面から崩しにかかる「正面突破」の方法である。本書は後者の方法をとっている。だから論述は、一貫して爽やかすぎるほどに滑走していく。読者の頭の中の「排泄物」を「黄金」に変えていくために、軽快なタッチを選んだわけだ。人間の排泄物を意味する幼児語を専門語のごとく頻発させ、読者の頭をガッチガチに縛っている聖俗構造を撹乱させる。もちろん、本書は、議論さえもポップ化する危険性と背中あわせであることは否定できない。実は、ひねくれものの私は内側からのアプローチを方を選ぶことが多いので、あらゆる議論が、「ウンコ」という文字に吸収されていく「ノリの良さ」に、若干の戸惑いがなかったかと言えば、それは嘘になる。
 ただ、他方で、本書の猪突猛進型にも意味がある。それは、本書には直接書かれていないので私なりに考えてみると、「排泄物」を過剰に隠す行為は、もっと言えば、清潔と汚穢に分厚い壁を構築してきたのは、ほとんどの場合男性であり、その壁は男性中心社会の権力性のあらわれであり、それに対する突破口としてこの直接性は有効だからである。その点、本書が介護の現場から始まるのは象徴的だ。介護の中で汚物の処理は極めて重要な仕事であることはいうまでもない。これなしでは被介護者の生命は途端に危機に瀕する。この重要な仕事は、現代の社会でもなお、女性の仕事だと落ちづけてられている。また、育児でもつい最近までは父親は子どものおむつ替えをしない人が多かった。男性社会では、男性は他者の排泄の世界から距離をとり続けたのである。だからこそ、これだけ朗らかに排泄の世界を説明することは、この権力性の隠蔽に風穴を開けるのに実は有効かもしれない、と私は考えた。


 二つ目の顔は、堅実な史料分析に基づく歴史地理学の入門書、ということである。地理学というアプローチが本書の課題にとって有益なのは、およそ、地の上下左右にあるものであれば全てが研究対象になるという鷹揚な構えである。それゆえ、人間の排泄物をめぐって、紙、便所、桶、野菜、沢庵、船などが縦横無尽に引用される。
 たとえば、シーボルトは、一八二六年五月九日の日記で、大阪で「下屎船」をみたと述べている。この描写は印象深い。水の都大阪では、船で運ばれるのは人間や食料だけではない。都市で産出された下肥が、六月、七月、八月には、「大都市の周囲の地方」を「きたなく染め」て、「庭木」や「穀物」にそそがれる、とシーボルトは述べている(六二頁)。季節、土地、中心と近郊、都市と農村、これら地理学の基本的な事象がここには豊富に盛り込まれている。
 このように江戸末期から明治時代にかけて外国から訪問した人びとの記録が一覧表(表3−1)にされていて、この表からだけでも入門者が考える種がたくさんある。アメリカから来た生物学者のエドワード・S・モースは、東京の死亡率が低いのは、人糞尿を農地に運び出しているからで、それが土壌を富ませていることを高く評価している一方で、イギリスから来た駐日公使ラザフォード・オールコックは、人糞尿を桶で運ぶ運搬人が列をなす姿を「まったくいやなものだ」と述べている。それぞれ故国と比較しながら述べているに違いないので、この表は、日本列島の相対化を重要な課題とする地理学の醍醐味だとも言えるかもしれない。
 名古屋近郊の定点観測も歴史地理学の面白さが伝わってくる。このあたりの研究成果はほぼ専門書の内容と言ってよい。一九世紀の末から一九四〇年まで七倍の人口が増えた名古屋市では屎尿の処理が極めて重要となる。とくに、コレラなどの「悪疫予防」のために、公衆衛生の整備が次々に整っていく。たしかに、長屋などでは衛生に関する事柄は家主に任せられていたので、近代化が遅れ、屎尿処理も家主が汲取人に「糞料」を払う慣行が残ったこともあったが、愛知県病院の医師から内務省の衛生局に入った後藤新平が衛生局長になって「伝染病予防法」を制定し、一九〇〇年には「汚物掃除法」が制定されるなど全国でも法制度が急速に整っていく。
 名古屋でも汚物処理が市営化され、屎尿を用いて硫安を生産するというサイクル構築を目指すが、工場が都市から都市近郊へと移るにつれて、近郊の田畑がさらに外へと追いやられ、屎尿の運搬費が膨大に膨れ、その結果、屎尿処理が立ち行かなり、一九一二年に挫折する、という歴史も興味深い。
 著者はここで議論を終わらせない。その結果、名古屋市は、直営の汲取人などを通じて、屎尿の無料汲み取りを可能にし、屎尿の農村への還元を再び増加させる方向へと舵を切るのである。『東春日井郡農会史』によると、この転換によって、購買肥料増加に苦しむ農家の肥料費用を軽減した。また、愛知県の現在の一宮の織物工場に眠っていた一次資料から、まさにこの時代に、女工の人糞尿を近郊農家に販売し、その農家が生産した大根を織物工場が購入して、女工のご飯の沢庵の原料に用いる、という物質循環も紹介している。これは物々交換ではなく金銭を通じた物質循環として、歴史的価値の高い分析である。
 著者が注目するのは名古屋だけではない。沖縄の養豚も当然視野に入ってくる。豚の良質なエサとして人糞尿が使用されていた文化が、戦後、「本土復帰」まで、米軍の指令によってアメリカ式の水洗トイレが普及し、家畜の屋内飼育が禁止されることて、変化が生まれていく、という視点も、比嘉理麻の『沖縄の人とブタ』の研究によりながら述べていく。沖縄の米軍基地が持つ食文化への影響はこれまでかなり語られてきたが、本書の研究が、物質全般の循環の分析に視野を拡大し、沖縄をめぐる生の権力の重層性を地べたから捉え返す研究へと発展することを期待したい。
 上記のように、場所を語り、場所で語る、という地理学的視点が至るところに感じられるのも、本書の特徴と言えよう。


 そして、最後にもう一つ印象に残った点を紹介したい。それは、尻拭きである。尻を拭く葉っぱにも向き不向きがあることをはじめとして、尻を拭くという行為にこれほどの人文・社会科学的課題が見られるとは、自分の無知を恥じるばかりであった。冒頭の斉藤たま『落し紙以前』や、長野の落し紙以前の分布を研究した馬瀬良雄の研究によりながら、蕗や葛の葉っぱなどさまざまな自然物で尻を拭く文化が紹介されている。これもまた地理学的な課題にほかならない。馬瀬の調査によると、長野県には「ワラ地帯」「葉っぱ地帯」「木片地帯」「棒地帯」「紙地帯」に分かれており、分布にも理由があるという。ワラ地帯は、「稲作が盛んな平野部」であり、山村地帯では木片が使われたという。
 さらに著者は世界各地の尻拭き文化に視線を移し、アメリカのコーンベルト地帯で用いられたトウモロコシの毛、サウジアラビアでの指と砂、エジプトでの小石などさまざまな「道具」が出てきて、想像するだけで旅行に行ったような気分になる。 
 この拙い紹介文でも、本書に挑発されて、なんとか「汚物」から「黄金」へのイメージ転換を間接的表現で伝えようと苦心したが、それがどこまで成功しているかは心許ない。本書が単なる「ノリ」の本ではないことを説明するために、私はできるだけ声のトーンを落として、アクションとしての価値と学術的価値についてしずしずと書いてみた。この意味で私は本書の罠にまんまとかかってしまったのかもしれない。読者もまた、本書を読んだあと、きっと自分だけの「黄金」の地理学を頭の中に思い描きたくなるだろう。