ちくま新書

家族の記憶と折り合う介護
ニコ・ニコルソン/佐藤眞一『マンガ 認知症』書評

6月刊ちくま新書『マンガ認知症』(ニコ・ニコルソン/佐藤眞一)に、人間行動学者の細馬宏通さんが書評を寄せてくださいました。マンガからにじみだす描き手のニコさんと認知症の祖母、介護する母の関係性のあたたかさを、しみじみと感じます。(PR誌「ちくま」2020年7月号より転載)

 近しい認知症の人の介護はなぜ難しいのか。たとえば、それまでなごやかに話していた母が、ほんの小さなきっかけで鬼の形相になる。怒りが剥き出しで全身に現れる。母に面と向かってこの表情をされるとたまらない。小さかった頃、ときどきこの顔で激昂されたことがさっと蘇ってきてしまう。こちらも、自分でもびっくりするほど感情が高ぶってしまって、気づくと「なんで怒るの⁈」と言い返している。思わず声を荒げてしまったことに気づいてようやく、お茶をいれにいくふりをしてその場から離れるが、心はざわついたままだ。
 認知症の家族を在宅介護するときにわたしたちが突き当たる困難は、単に本人の問題というよりも、本人と介護する家族との関係の問題といったほうがよい。そして問題の多くは、わたしたちが、かつての本人と自分との関係を、今の本人と自分との関係に重ねてしまうことにある。しかもそれは理屈というよりは感情のレベルで起こってしまい、簡単には止まらない。
『マンガ認知症』は、認知症が進んだおばあさんとおかあさん、そして著者のニコさん本人(以下、本に従って「婆ル」「母ル」「ニコ」と記させていただく)の悩みをもとに、認知症の人とその家族の関係のあり方を考えていく本だ。一家の悩みに答えるべく登場するサトー先生こと佐藤眞一先生は、認知症を単に本人の問題として捉えるのではなく、周囲とのコミュニケーションのあり方の問題として捉える専門家だ。そのサトー先生のおかげで、『マンガ認知症』は、単に婆ルの問題をどう解決するか、ではなく、婆ルと母ル、そしてニコの関係をどう捉え直すか、という問題として描かれる。
 たとえば、お米を大量に炊いてしまう婆ルについて、サトー先生は記憶や生活歴、味覚の変化など、婆ルがその行動を起こしてしまう理由を解きほぐしていく。婆ルにお米を炊かなくさせるためではない。むしろ婆ルのそばにいる人に対して、どうやって婆ルのことを理解したらよいかを知らせ、婆ルに対する見方を変えてもらうためだ。サトー先生の周到な解説によって、読者は認知症の人がとる一見不可解な行動には、ちゃんと理由があり、認知症の人から見た世界はどんなものかを想像することができる。
 母ルとニコの立場の違いもおもしろい。婆ルを一人で在宅介護していた母ルは、同じ話をずっときき同じ行動に何度も付き添ってきた。一方ニコは、東京と宮城県山元町を往復し、二人の長い年月の苦労を垣間見、ときにはまとまった時間つきあってきた。母ルには長い年月の抜きがたい来歴がある。それをニコは描くだけの距離をもっている。家族が二人いることで、話が立体的になっている。
 サトー先生は、婆ルへの見方を変えることを促す一方で、婆ルや母ル、そしてニコが家族としてもっている記憶をないがしろにしない。「認知症になってもその方の人生の核である部分は残ってるんですよね」。サトー先生の話をきいた母ルとニコは、野菜を切るのに専念している台所の婆ルの姿を背後から見守りながら語り合う。「お米を炊いたり味噌汁作ったり縫い物したり/お母さんはお母さんのままなのよね…」「そこが切ないとこでもあるんだけどね」。この最後のコマで、野菜に包丁を入れるときの真剣な婆ルの表情を、著者は大きく描いている。現実には、背後から見守る著者からは、婆ルの表情をこのアングルから観察することはできなかったに違いない。けれど著者は、婆ルが真剣にまな板に向かっているときの表情を、見ずとも描くことができる。著者もまた、婆ルとの忘れがたい来歴を持っている。絵から伝わってくるこの感覚が、『マンガ認知症』の読後感をあたたかなものにしている。