平成は30年余りを過ぎ、終わりを遂げた。この30年間は、国際政治の上でも国内政治の上でも激動の時期であった。平成の始まりは国際的にはソ連解体とベルリンの壁崩壊、国内的にはバブルの崩壊とそれに続く「失われた20年」によって特徴づけられる。本書は、日本の諸政党、具体的には自民党と民主党、公明党、日本共産党、そして民進党およびその分裂によって登場した立憲民主党、国民民主党などその他多数の小政党、並びに日本会議、在特会(ヘイトスピーチ)、SEALDs、原発反対運動などの「社会運動」を対象として、平成の政治を検討する。
平成の政治はリクルート事件で幕を開けた。リクルート事件とは、就職情報を提供するリクルート社がその関連会社の未公開株を多数の政治家に譲渡し、彼らに多大な利益を供与した事件である。竹下登内閣の時期であった。これによって深まった政治不信は、数年後、自民党を分裂・下野に導き、細川護熙内閣を誕生させた。自民党と社会党の間の馴れ合いの上に立っていた「1955年の体制」が崩壊し、「改革」(政治改革、行政改革、財政改革、経済構造改革、教育改革等々)が争点となる時代が始まったのである。その後の30年は、めまぐるしい政党間の連立とその解消、すなわち政界再編の時期となった。それはまた、一層進むグローバリゼーションの中でグローバルな経済危機(1998年のアジア経済危機から2008年のリーマン・ショック)や、中東での紛争・テロ、北朝鮮の脅威の高まり、中国の膨張主義が登場した時期でもあった。
政治学者の竹中治堅は、1990年代以降の国内政治について、次のように述べる。「日本の政治の仕組みが、大きく変わった。制度的に現在の首相は、以前に比べ大きな権力を保持する」(竹中2006)。これが「平成の自民党」の特徴である。この変化は、細川護熙内閣時代の選挙制度改革、橋本龍太郎首相による6大改革、そして小泉純一郎首相、安倍晋三首相(第2次以降)における、官邸を徹底して活用した「官邸主導」によって実現した。
さらに小泉首相による2005年9月の郵政選挙以降、選挙は国民投票的な性格を帯びるようになった。従来の派閥の離合集散によって首相が選ばれるのではなく、国民の人気が首相を選ぶ基準となった(もっともそれ以前、既に弱小派閥出身の海部俊樹首相や経世会の一匹狼であった橋本龍太郎首相の登場にもその先駆が見られる)。
首相が大きな権限をもつようになったのには、2つの制度的要因がある。一つは候補者を選ぶ権限(公認権)、もう一つは政治資金を配分する権限(配分権)である。実際にこれを行使するのは幹事長であるが、その幹事長を選ぶのは総裁・首相である。さらに首相は、様々な諮問委員会を作ってトップダウン式に政策を決定していくようになった。省庁や族議員を飛び越して、首相直属の機関で政策を決定するのが常態となった。
さらに新選挙制度の下では、選挙が政党間のものとなり、党首のイメージが決定的な重要性をもつようになった。特に比例区では、そうした傾向が強い。中選挙区制度の下で、各選挙区での自民党議員同士の戦いが熾烈を極めたのとは対照的である。前述のように既に1995年の段階で、橋本龍太郎の国民的人気は他の追随を許さず(各新聞社の世論調査はそれを裏書きしていた)、それが彼を総裁に押し上げたことはその現れであった。
「橋本改革」の一つは、内閣官房の拡充にあった。縦割り行政の克服のためであった。そのために内閣法第4条を改正して、首相に重要政策の基本方針の発議権を認めることとした。また首相を補佐する人員を増やした。それまでの内閣官房は省庁の調整を行うことを主たる任務としていたのを、政策立案の役割を与えた。これらの改革で橋本首相のリーダーシップが発揮された。
小泉首相は橋本首相が準備した総裁の権力を十分に活用し、国民的人気を背景に強大な権力を振るった。その後、第2次以降の安倍晋三内閣も、安定した政権基盤の上に同様の手法を使ってきた。この内閣では内閣官房長官の菅義偉官房長官が官邸を取り仕切っている。
本書では、こうした諸政党の変貌に加えて、以上の首相の権限強化の過程をも、各内閣の業績をフォローしながら検討していく。
終わりのない政治腐敗、離合集散を繰り返す野党、新しい社会運動の登場、平成の30年間で日本の政治はいかに変わり、あるいは変わらなかったのか? ちくま新書『平成政治史』の「はじめに」を公開します。