1 義務化の意義は何か
最も厳しい環境にいる子どもたちこそ幼児教育が必要
可知 駒崎さんがブログで、「幼児教育無償化まで行ったならば、親は子どもが三才以降になったら保育園か幼稚園に通わせなければならないという義務化に歩を進めるべき」という主張をされていました。SNS上ではかなり賛否両論があったかと思います。
私は、貧困や虐待等の多くの問題を抱えた家族の無園児を幼児教育につなぐ効果が義務化にはある、と思っていますので基本的には賛成です。ただ、日本の制度上、義務化には様々なハードルがありますので、その辺りの話は後でしたいと思います。
まず初めに、駒崎さんは幼児教育義務化の意義をどのようにお考えでしょうか。
駒崎 ヘックマンという経済学者が、就学前に幼児教育を受けることが、その子どもたちのその後の人生において、可能性を伸ばし、そして様々なネガティブな影響を軽減できると(ジェームズ・ヘックマン ノーベル賞受賞経済学者『幼児教育の経済学』〈東洋経済新報社〉にて、五歳までの教育が重要であると説いている)主張しています。しかし今は、保育園等にたまたま通える家庭環境にある子どもは、そうした幼児教育を受けられるけれども、そうじゃない子どもはその網からこぼれてしまうという状況です。
そして、可知先生たちの研究で、こぼれた子ほど実は幼児教育が必要だったということがわかりました。大変意義深い研究だったと思います。最も弱い立場にいる、最も厳しい環境にいる子どもたちこそ幼児教育の恩恵を受けねばならないわけで、だとするなら義務化するしかないのではと考えます。
そして、これまで無園児になってしまった理由の一つが、そこにかかる費用だったのではないかと、僕は考えています。しかし、二〇一九年一〇月から幼児教育無償化によって、保育料や幼稚園の費用がかからなくなり、経済的な理由で通わせられないというハードルはなくなった。それなら、義務化をぜひ進めたいということです。
可知 おっしゃる通りですね。
駒崎 「みんなが行くようにしましょう」と言っても「いや、お金払わなきゃいけないよね」となっていたと思います。保育園は所得がとても低ければ無料で行けますが、幼稚園はそうではなく、経済的にはみんなが行ける状況ではありませんでした。その前提がなくなりましたので、大きなチャンスではないかというのが僕の意見です。
なぜ無償化では不十分なのか
可知 今回の無償化によって、経済的な理由で保育園や幼稚園に入っていない無園児が入れるようになるだろうという意見が政治家の方からは出ています。無園児を幼児教育につなげるにあたって、なぜ無償化では不十分で、義務化が必要なのかということを検討したいと思います。
駒崎 無償化は、「費用を払わなくて済みます」ということにすぎないわけですよね。ハードルは下がったけれども、行かなくてもいいという状況は変わっていない。親は、子どもを幼稚園、保育園に行かせなくてもなんら問題はないのです。ということは、親が必要性を感じていないとか、あるいは親が精神疾患である等の理由で養育不全の家庭が、「いいよ、別に子どもに教育なんて」と思ってしまったら、その子の機会は失われるという状況になるわけです。
ですから、子どもが幼児教育の恩恵を受けることにおいては、親の意識というハードルが、経済的なものの他にあるわけです。子どもにとってはアンコントローラブルな要素によって将来が決まってしまうのは、少なくともフェアではありません。親がどういう考えであろうが幼児教育に行かせるためには、義務化じゃないといけないのではないかということですね。
義務教育は、基本的に親がどうであろうが小学校、中学校には行こうよということです。なぜならばそれは社会にとって必要だから、というロジックで国民の自由を制限しているわけです。小・中学校と同様に、幼児教育がより今後の社会において重要だという認識が高まってきた今こそ、義務化していく必要があるのではないかと思います。
可知 私もほとんど同感ですけれども、一般の方には、いろんな問題を抱えている家族の事情が想像しづらいのかなと思っています。例えば、貧困や虐待、DV、親の精神疾患、子どもの発達障害などがいろいろ絡み合っている家庭が、「幼児教育が無償化されたんだ。無料で行けるんだね、ラッキー。じゃあ、行くことにしよう。」とはならないとイメージできるようになってほしいと思っています。
駒崎 まさにそうですね。
可知 おそらくそういった家庭の親の中には、自分自身がネグレクト状態で育ってきたりしていて、幼稚園や保育園に通った経験がないことから、入れるという発想にはならない方がいると思います。他には、通わせるのに少しでもお金がかかるのだったら、他のものに使いたいと考える家庭もあると思います。ですから、そういった家庭は、「無償化だけでは入らない」という理解を広めたいですね。
駒崎 そうですね。例えば外国人家庭は、小学校中学校の義務教育から外れています。対象外になっているために、不就学の可能性のある外国籍児童が二万人ほどいるということが二〇一九年九月二七日発表の文科省調査で分かりました。義務化をしないと、そういう状況になるのです。
義務教育も受けていない外国人が、日本で住み続けるとどうなるか。結局行き場所がなく、アンダーグラウンドな仕事であるとか、さまざまな負の力に誘引されてしまう可能性がとても高くなります。それはその子どもの人生にとってもマイナスですし、社会全体にとっても、治安が悪くなるとか、さまざまな負の要素をもたらしてしまう可能性があります。ですから、しっかり社会に包摂するためには義務化していかないといけない。
必ずしもすべての家庭が「子どもの幼児教育必要だよね、通わせなきゃ」と思うわけではないんです。特に、難しい環境にある家庭ほどそうは思わなかったり思えなかったりするので、そうした家庭の親にも「三才になったら自動的に行くものです」としていくべきだと思うんですね。
フランスは義務教育を三歳からに引き下げ
駒崎 二〇一九年から、フランスでは義務教育を三才からに引き下げたというニュースがありました。実は、フランスには保育学校という、日本の幼稚園プラス保育園みたいなところがあり、そこに通う子どもたちは九割を超えていました。ですので、義務教育を六才から三才に引き下げても、実質的にはあまり何も変わらないという事情はあります。そうであったとしても、義務教育の年齢が引き下げられることが受け入れられる欧州と、いまだに六才からである日本という差は、知っておいたほうがいいと思います。
可知 フランスは小学一年生からのスタートを平等にしていくために、義務教育を三才からに引き下げたのですが、それは日本でも同じことだと思います。小学校入学の時点で、無園児が勉強にも集団生活にもついていけないという、本人にとって苦しい状況になってしまいますよね。
駒崎 本当にその通りです。
可知 それから、義務化することで、自治体が保育園や幼稚園を整えるとか、保護者に就園を促すという強制力がもう少し働くようになるのかなと思います。
駒崎 おっしゃる通りです。例えば小学校の待機児童はいません。それはなぜかというと「義務」だからですよね。絶対に一人の子も待機させてはいけないので、子どもの数だけ小学校を作っている。同様の力が働くと思うんです。保育園や幼稚園は行っても行かなくても親の自由ですが、待機児童問題としてメディアが取り上げ、社会問題化した。だから政府はしぶしぶ待機児童解消に取り組んでいますが、それまでは放置していたわけです。
義務化することによって、保育園や幼稚園をきちんと子どもの数だけ、必要な数作らなきゃ、という状況ができることになります。それから医療的ケア児の受け入れ先も今はすごく乏しいですけど、義務だから絶対行かせないと、と政府も本気で施設を作っていこうとなっていくと思います。
可知 それを聞いて思い出したのですが、発達障害の支援団体の代表の方が「発達障害の子や医療的ケア児の支援が不足しているが、障害があろうとなかろうと同じ子どもなのに、障害があるんだから仕方がないということなら、日本は子どもを大切にしない国ということだ」と話されていたのが印象的でした。属性的にみんなと違うからといって放っておかれるということは、日本は子どもを大切にしない国だということになります。
2 義務化と言っても、毎日行かなくていい
本質的な意義は地域社会とつながること
可知 次に、駒崎さんがイメージする「義務化」を教えてください。
駒崎 義務化というと、毎日通わなきゃいけないのかと言われるんですけれども、就学前においてはフレキシブルな形でいいんじゃないかと思っています。週三であったり、週四であったり。いずれにせよ、親だけで子育てするのではなく、外部の専門家と子どもが触れ合うという機会を担保する、つまり保育を通じて地域社会と接続するというようなイメージなので、必ずしも週五でなくてもいいかなと思っています。
可知 顔が見える関係であればいいということで、例えば週一でもいいとか……。
駒崎 そうですね、日でいうなら週一~週六、時間でいうならば幼稚園のように四時間から、一〇・五時間の保育園まであるでしょう。いろんなパターンはあると思いますけれども、定期的に家庭外の施設で専門家等と接触し、子どもの発達にプラスのコミュニケーションが行われることが重要ではないかなと思います。
幼児教育では遊びが重要
可知 教育内容に関して、小学校のように教科書で学ぶようなことをイメージしてしまう方がいますけど、その辺りは保育園の経営者としていかがですか。
駒崎 昔はみんなで一緒に同じことをさせるのが幼児教育だと思われていたんですが、現在は、工業社会に最適化させるような教育は古い、と考えられています。そうではなくて内発的に自分のテーマを自分で見つけて、そして自分で解決していく、というような学びの在り方というのが、これからのAI時代を生きる子どもたちに必要なものだといわれています。
知識の詰め込みだけでなく、自ら考え、そして仲間との対話によって様々なアイデアを組み合わせていくことができる人物像。そのためにどうしたらいいかですが、就学前においてはとにかく、簡単にいうと「遊ぶ」ということですね。遊びを通じて好奇心を養い、友達同士のコミュニケーション能力を養い、そして一緒になって様々なルールを自分で作り出しながら遊んでいくということですね。
遊びは軽視されがちですが、実はとても高度なことをしています。例えば友達とドロケイ(鬼ごっこの一種。泥棒と警察)やろうぜとなって、「〇〇ちゃんはちょっと弱いから、二回見つかったら捕まることにしようね」というような、その子に合わせたルールを作っていくことを練習できるわけですし、様々な友達とのコミュニケーションがそこで培われていきます。また、もし自分が怪獣だったら、こうやって追いかけるだろう、という反実仮想も遊びの中で学んでいったりするわけです。
そういう意味で「遊び」というのは重要なので、子どもの「遊びたい」「やりたい」ということを育むような形の在り方が幼児教育では重要で、決してカタカナを何百回書き写させるとか、百人一首を暗唱させるとか、マスゲームをやらせるとか、それが幼児教育ではないんだというのは、口を酸っぱくして言いたいです。
可知 私も三歳の息子がいます。子どもだから当たり前だとは思うのですが、我慢がなかなかできなくて(笑)。でも、友達と遊ぶ様子を見ていると、時には友達に譲ったりしていて、忍耐力がついてきているなと感じます。それは将来的にその子の人生を支えていく力になると思いますので、遊びは大事ですね。
(続きは、4月刊行のちくま新書『保育園に通えない子どもたち』でどうぞ)
写真提供 NPO法人フローレンス、撮影 赤堀雛