以前より状況は悪くなっている。表現の自由と歴史修正主義、新自由主義と自己責任論、いろいろ起きすぎていていちいち説明する気にもならない。いっぱいあって疲れた。マジで人間全員が超かわいくて、同時に死ぬほど腹が立つ。漠然とした強い言葉を使わないと立っていられない。元気はとっくにない。
そういう無力感と過剰にせり上がってくる強い気持ちに向き合うとき、金子文子を読むのが、劇薬だが一番効く。ここでは鈴木裕子編『金子文子 わたしはわたし自身を生きる――手記・調書・歌・年譜』(梨の木舎)を推薦したい。自伝から調書まで、これで概要は全て確認できる。
「現にあるものをぶち壊すのが私の職業です」
皇太子暗殺事件の被告人として出廷した文子は、職業を尋ねられてそう答えたという。文子は破壊者であった。
金子文子は1903年、血統主義者で遊び人の父と、男性に依存しなければ生きていけない性格の母との間に、無戸籍児として出生した。間もなく父は母の妹と駆け落ちしていなくなり、文子は極貧の中で母に育てられる。しかし母の恋人たちが文子に与えたのは、教育ではなく暴力であった。その後文子は朝鮮半島で高利貸しをしている父方の祖母に引き取られるが、そこでも文子は奴隷のようにこき使われ、虐待を受ける。文子は自殺を試すほどの苦痛から逃れてようやく帰国したものの、身内と衝突し、結局身一つで東京へ出た。働きながらどうにか学問をしようと志したのだ。しかし生活はあまりに苦しく、学問をする余裕は次第に失われた。文子は自分がこの世の矛盾を一身に浴びてきたことを自覚し、怒りを抱えて社会運動に身を投じる。公私にわたるパートナーである朝鮮半島出身活動家・朴烈に出会ったのも、東京でのできごとだった。
「一口にいえば私の思想これに基く私の運動は生物の絶滅運動であります」
(前掲書、303頁)
文子の思想は何度も変動しているが、1924年の文子は生き物が存在しない状態を目標とするニヒリストであった。アナキストのように、無政府状態で権力の存在しない共同体を作る、というような理想は、この世の地獄を見尽くし、辛酸を嘗め尽くしてきた当時の文子にはとうてい信じられなくなっていたのだ。すべての破壊、万物の絶滅。もし文子が自分の言葉を100%信じ、自分の存在をはっきり認めていたとしたら、こんなに強い言葉は言えないと思う。常にぐらつき、苦しんでいたからこそ、誰よりも文子は自分の思想を自分に向けて説いていた。
文子は強烈な言葉を陳腐化させずに口から出すことができる稀有な人だ。それは文子の言葉が、文子の身体から削り出された血と骨そのものだからである。文子の人生を消費したくない。受け手も文子の額に額をぶつけるつもりで文子の話を聞かざるを得ない。
「地球をばしかと抱きしめ我泣かん高きにいます天帝の前」
「水煙揚げて地球の沈みなば我ほほえまんしぶきの蔭に」
(前掲書、382〜383頁)
これは文子が詠んだ歌だ。神に命乞いをするように、地球を抱きしめて涙する文子。地球が崩壊するのを微笑んで受け入れる文子。一見矛盾するこの二つの内容は、同じ人間の中で切実に隣り合っている。
「まじまじと「人」をみつめて憎しみに胸燃やしつつむせび泣く我」
(前掲書、380頁)
わかる。軽率にわかると言いたくなくてもわかるんだからわかると言いたい。人間、こんなに憎いのに、こんなに好きなのは、本当にわからない。
文子は大逆罪で死刑判決を受けたのち、恩赦を(文子は拒絶したのに、無理やり)言い渡される。それから3カ月後に文子は自殺した。
判決が下る直前の大審院で、文子は思想の転向を口にする。万物の絶滅を掲げた虚無主義を離れ、「個人主義的無政府主義」と称する境地へ回帰したのだ。万物の絶滅から、目標は権力のない共同体の構築へと変わっていた。文子はもう一度、人間の世界を許す方へ揺れた。
文子は私にとってロールモデルではなくライバルだ。今私は23歳で、文子の享年と同じ年齢である。文子の手記を読んでは、どうして自分と同じ年の人がこんなにすばらしい文章が書けるのかと思い、本気で嫉妬し続けている。だからこそ文子の決断を無批判に賞賛したりなぞったりしたくない。ただ触発されている。
「私は自分の行為のすべてを等しき値いにおいて認めるのです」
(前掲書、354頁)
これはすでに実行されて久しい行動規範の表明ではない。自己否定から立ち上がる宣言である。親族に、資本家に、国家に、社会に主体性を奪われ続けてきた人間が、自分をすりつぶそうとするすべての力に対する徹底抗戦を掲げた旗である。絶えず抵抗宣言を発し続けること、宣言を作りながら内省していくこと、誰よりも真摯に苦しむ個人であること。今やらなければならないことは、すでに100年前から文子が口にしている。文子はかっこよくて羨ましい。でも文子みたいになりたいと言ってしまうと負けた気になるから、絶対に言わない。