(聞き手=編集部 井口、山本拓)
第1回 音楽と社会
最近よく聴いている音楽
―― 『ゴッチ語録 決定版』にはたくさんのミュージシャンが出てきますが、最近よく聴いている音楽についてお教えください。
後藤 去年だったら、コートニー・バーネットっていうオーストラリアのシンガーソングライターのアルバムをよく聴いてましたね。今年はブライアン・イーノをよく聴いてます。フリップ&イーノのアルバムを聴いたりとか。あと、僕はほとんどレコードで音楽を聴くので、ヘビーローテーションはないんですよ。レコードの場合、しっかり時間を取って聴かないといけないので。今年だったらイギー・ポップの新譜も好きですね(『ポスト・ポップ・ディプレッション』)。クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ(Queens of the Stone Age)というバンドをやってるジョシュ・オムというハードロック系のプロデューサーを迎えた新譜で、ちょっと系譜が違うんですけれど。そのジョシュ・オムとイギー・ポップの逸話が最高にいいんですよ。彼はジョシュ・オムに自分の性癖に関する手紙を3通ぐらい送ったんだけど、ジョシュ・オムは気持ち悪がって、何年か連絡しないで放っておいたらしくて(笑)。でも一緒に仕事をしたら、すごくいいアルバムができて。イギー・ポップもすごいけど、ジョシュ・オムがいい仕事したんだなと思ったんです。
いつも、自分に引っかかってきたものをアナログで買ったり取り寄せたりして、ゆっくり聴きます。特に気になる曲があったら、英語の勉強と思いながら詞を訳してみたり。それで最近、いろいろなミュージシャンの詩集が欲しいなと思ったりします。コートニー・バーネットには「Dead Fox」っていう曲があるんですけど、この曲の詞を訳してみたら、オーストラリアのことや社会的なことがいろいろ書かれていて。たとえば「高速道路の周りにはワラビーの剥製が転がってる」とか「鮫に殺される人よりも、車に殺される人のほうが多い」とか。あと、有機食材についての友人とのやりとりなんかも書いてありますね。そういうくだりが女の子の恋愛についてのぼやきみたいなテンションで、うわーっと歌われているのがすごくかっこいい。僕も彼女みたいにやらなきゃいけないと思いました。
訳詞を始めたわけ
―― 歌詞を訳すのは、以前からやってたことなんですか?
後藤 いや、歌ってる内容が気になり始めて。みんな洋楽をありがたがってるけど、これって本当に全方位に先鋭的なのかなと思って。たぶん、2010年過ぎぐらいからだと思います。それまでは、音がよけりゃ別にいいやと思ってたんです。確かに音像はかっこいいし、歌詞の内容がわからないがゆえのよさもあったりして。言葉がわからないから気持ちいいみたいな音楽、あるじゃないですか。つまり、ダンスミュージックとして機能してくれるというか。こっちがつかまえようとしなくても、ただ入ってくる言葉が音としてかっこいいみたいな。たとえばベックだったら「Devils Haircutって意味わからないけど、なんかかっこいい響きだよね」とか。そういうのがあったんですけど、やっぱり歌詞もわかったほうがいいなと思って。
―― それは、ご自身の歌詞への意識とも通底してるんですか?
後藤 それはあるかもしれないですね。何のことを歌ってるのかということは、すごく重要で。海外のバンドの友達が増えると、そこでの話題は音楽だけに留まらなくて、普段考えていることやアートの話なんかもするんです。あまり文学の話にはならないですけど、やっぱり社会の話になるんですよ。この間クリス・ウォラ(元Death Cab For Cutie)と一緒にレコーディングした時も、彼はアメリカ人だから大統領選の話になりましたし。トランプとかサンダースの話になって、「これからどうなるのかな」という話をして。みんなで「今の状況は、冗談みたいだよね」みたいな話をしてゲラゲラ笑って。レコーディングを手伝ってくれていたイギリス人とも、やっぱり労働党党首のジェレミー・コービンの話になって、「イギリスにもすばらしい人が出てきたね」って。海外のミュージシャンと話していると、どうしてもそういう話になります。
あと、イギリス人から見たアメリカやアメリカ英語についての話もすごく面白かった。今度のソロでは英語で歌詞を書いているから、「イギリスではそう言うけど、アメリカでは絶対にそういう言い方はしない」というアドバイスをくれたり。同じ英語でも、イギリスとアメリカではだいぶ違うんだなと。「アメリカ人にしてみれば、イギリス英語で歌うのって大阪弁で歌ってるみたいな感じだよ」とも言っていて。「オアシス(oasis)とかがアメリカで売れないのは、だからなんだよ。かなりキツイ大阪弁で歌ったロックンロールを想像したら、なんとなくわかるでしょ」みたいなことを言われて、「そうなのか」と納得しました。あと彼は、こんなことも言ってました。「アメリカ人やイギリス人には絶対に思いつかないような、言葉の伸ばし方も絶対にある。北欧の人たちが売れたりするのは、歌い回しとか母音の伸ばし方がちょっと変わってたりするからだよ。みんなそこが気に入って、真似して歌いたくなったりするんだよね」と。たしか、アバ(ABBA)のことを言ってたような気がします。あとオアシスの「Cigarettes & Alcohol」の歌詞に「イマジネイシエーン」っていうところがあるけど、普通はあんな歌い方をしないのに、わざとやっていて、でもそれが面白いからこそ、みんな街中やライヴ会場で歌い方の真似するんだと。
―― ちょっとジョニー・ロットンみたいな。
後藤 わざとああいうことやって、はずしてる。そういう話をしてました。話をしてるといろんなことにとっちらかっていくんですけど、そこで話題になるのは音楽だけじゃないんですよね。だから、いろんなことが気になってきます。
ミュージシャンと社会的な話題
―― 海外の方と話していると、社会的なことが話題になると思うんですけど、日本のミュージシャンの方と話していても、やはりそういうふうになりますか? それともちょっと違いますか?
後藤 居酒屋とかでは、普通に社会の話とか政治の話をしますね。もちろんいろんな考え方の人がいるので、「それはお前、違うだろう。俺はこう思うんだよね」みたいな話になります。今、何が保守で何が革新なのかということはよくわからないから、あまりそういう言葉は使いたくないんですけど、日本では右と左がめちゃくちゃによじれちゃってる。でも、とにかくいろんな考え方・背景があって面白いなと。別に相手の考え方を否定したいわけじゃないから、「そういうふうに考えてるのか。俺はそうは思わないんだけど。なぜならこう思うからだ」みたいなことを語り合ったりして。そうすると向こうも「ああ、なるほどね」って。僕は根本的に、友達の考え方を変えてやろうとは思ってないんですけれど、友達や話し相手がどう考えているのかを知るのはいいことですよね。いろいろな意見を知ることで、物事の形がもっとくっきり見えてくる。本だって真正面から見たらただの四角で、ページがどのぐらいあるのかわからないけど、ちょっとずらしたら厚みとかが見えてくる。そういう見方をしたいなと思っています。
音楽や歌詞についても似たような興味が源泉なんです。僕が年を取ったからだと思うんですけど、最新のフィーリングと言われているインディーズ・ロックとかが出てきた時、「この人たちは何を歌ってるんだろう」ということが気になり始めたんですよね。それでよくよく歌詞を見てみると、意外としょうもなかったりとか(笑)。日本の若いバンドと、歌ってることは一緒だなと思うこともあるし。アメリカのバンドも逃避的に「君と僕」みたいなことを歌ってたりしたから、「そんなに変わらないじゃん」と思って。コートニー・バーネットを聴いた時には、これは明らかに違うと思いましたけど。
あと、このバンドはアメリカではあんなに売れてるのに、日本ではなんで全然売れないんだろうとか。そう思って詞を読んでみると、「たしかに、これはわからないな」と思ったり。たとえばアーケイド・ファイア(Arcade Fire)っていうカナダのロックバンドはアメリカでめちゃくちゃ売れてるんですけど、日本では全然売れてない。だからたぶん、日本では、フェス以外では観られないと思います。彼らのサウンドを聴くと、アメリカにどんどんおもねっているなと感じるんです。たぶん、アメリカで売れるための音楽に変化させていったと思う。曲を聴いてると、キリスト教的なフィーリング、タッチがあるような気がするんですよね。歌詞を読んでるとキリスト教的な単語が出てきたりして、わりと教訓みたいなことが書いてある。
だから、こういうのはアメリカ人が特別に好きなものなんじゃないかと思って。歌詞がこれだと、日本では刺さるところがないだろうなと。日本でいまいち広がらないのは言葉とメロディーのせいだと思います。たとえばカントリー・ミュージックのコンサートとか、日本で全然お客さんが入らないんですよね。あれは、アメリカ的すぎなんだと思うんです。やっぱり、ユニバーサルなスケベ心みたいなのが入ってないと響かない。これはあくまで、僕の想像ですけど、アーケイド・ファイアは、日本人に響かせようと思って曲を書いてないと思いますよ。この間フジロックに来たから、彼らが来たいと思えば、次からは変わるかもしれませんけどね。
『ゴッチ語録 決定版』の連載時に起きたこと
―― 『ゴッチ語録 決定版』を読み直してみて、特に印象的な回はありますか? 私は3・11直後の「Zの回」が特に印象的でした。元は『ぴあ』の連載ですね。
後藤 ほぼ10年前の文章もありますね。『ぴあ』連載の途中に311という大きなことがあって、社会の雰囲気に引っ張られていくのは仕方がなかったと思うんです。当時、「どうするの? 連載」みたいな話をしたような気がします。たぶん「Wの回」、ウィーザー(weezer)の時に震災があって。これは紙も不足していた時で、出版社も困っていて。連載の終わりかけでああいうことが起こってしまったこともあって、書くということについてシリアスになりました。
―― 「Zの回」には生き延びること、生きることについて書かれていますね。
後藤 そうですね。この頃になると、日記とエッセイが連載と交差してきて。そうなると、外向けの言葉として整っていくというか。最初のうちはディスクガイドだと思って書いてたんですけど、そうも言ってられなくなってきて、最後は内容がシリアスになってしまったんです。もともとは「毎週CDを1枚挙げてやっていきましょう」という主旨の連載でした。基本的には自分よりも若い子たちが読んで、CDやレコードを買う時の参考にしてくれたら嬉しいなと思って、書いていたんです。
―― この本のあとがきもよかったですね。音楽を入れる器として人間が一番大事で、音楽はなくならないという。
後藤 いろいろと考えたら、そういうところにたどり着きましたね。
―― 新刊単行本『何度でもオールライトと歌え』(ミシマ社)にも、音楽の入れ物としての人間の身体について書いてありますね。
後藤 「結局は身体でしょう」と思って。ポップミュージックは特にそうだと思うんです。みんな「CDが売れない」ってワイワイ騒いでますけど、音楽の歴史に比べたら、CDというメディアの歴史が短いんだから、この先どうなるかわからない。民俗学でも文化人類学でも何でもいいけど、本を読んだら音楽なんて何万年も前からあると書いてありますし。録音物がない時代のほうが長いんです。
好きな本のこと
―― 小泉文夫さんの本も『何度でもオールライトと歌え』の中の写真に写ってましたね。
後藤 小泉文夫さんの本は坂本龍一さんに勧められて読んだんですけど、すごく面白くて何冊も買ってしまいました。あと、網野善彦さんの本もよく読んでいます。ちくま文庫とか平凡社ライブラリーから出ている民俗史の本とか、いろいろ買いました。水木しげるとかたくさん持ってます。あとはつげ義春とか。「筑摩書房の本と俺の本が本棚に並ぶんだ。やったー!」とか思いましたけど(笑)。坂本龍一さんの文庫本だと、吉本隆明さんと対談した『音楽機械論』(ちくま学芸文庫)もありますね。
あと、筑摩の本じゃないかもしれませんけど、最近は一遍についての本に興味を持っています。今、踊念仏にすごく興味があって。「これはウディ・ガスリーでしょ。早いな日本」と思って(笑)。最終的にはすごい寄進・お布施が集まって、大教団になっていく。おそらく、どこかの時点でロックスターみたいになったんでしょうね。そのへんも面白そうだなと思って。
坂本龍一さんと自分の方向性
―― やはり、坂本龍一さんの影響は大きいですか? ここ数年、イベントを一緒にやられることも多いと思いますが。
後藤 そうですね。世界に誇るべき音楽家であり、芸術家でもありますから。昔はよくわからなかったんです。音楽的にすごいことは世間一般の人と同じようにわかっていたんですけど。言葉は悪いんですけど、僕が今の若い子たちにそう見られているように、坂本さんはわりと社会的なことや政治的なことに熱心という印象が強かったので、ちょっと引いて見ているような、そういう距離感はありましたね。たとえばエコロジストで、マイ箸を持ち歩いてるとか(笑)。僕が今誤解を受けているように、坂本さんも誤解を受けていた時期がきっとあると思うんですけど。でも、何か興味が出てきていろいろフラフラ調べていると、坂本さんはだいたい先回りしていらっしゃるんです。「よーし、今度は縄文だ」と思って行ったら、「あれ? 坂本さんが先に来てる」とか。最近はアイヌ音楽の人たちと一緒にやることが増えてきたんですけれど、坂本さんはずいぶん前からやっていらっしゃるとか。森に入っていっても、文楽や能に行っても、やはりいらっしゃる。
そういう意味では、自分が興味を持っている分野は、方向的に間違ってないんだなと思って安心ですけどね。この先にちゃんと音楽との交わりがあるから、坂本さんがいらっしゃるのかなと。並べて話すのはおこがましいですけど。上手く言葉にできないんですが、感じてるもののつながりがあるんじゃないかと思っています。坂本さんのほうが解像度高く、何かを見たり感じたりしていると思うんですけど、僕もその切れ端みたいなものにはタッチできてるのかなと。それをちゃんとたどっていくのが大事なのかなと思ったりしますけどね。坂本さんがいろんなところで社会や若い世代に向けて発しているフィーリングをつかまえながら、自分の進むべき何かのリファレンスにしていく。言葉にすれば、そういうイメージです。
直接教えてもらったことって、小泉文夫さんの本とかシュタイナーの本とか何冊か指定されて「この本を読みなさい」と言われたことと、美味い寿司屋に連れていってもらったことぐらいなんですけど(笑)。あとは、僕が勝手に坂本さんに注目しているというか。コンサートの映像を見たり、CDを聴いたり、やってることを遠くから眺めたりしながら「すごいな」と思ってるだけですけど。
社会的な活動とミュージシャン
――後藤さんには、こうなりたいというミュージシャン像はあるんでしょうか。たとえばトム・ヨークとかも社会的な活動をしながら、非常に知的な音楽をつくり続けたり、いろいろな試みをしていますよね。そういうミュージシャンのことは、やはり気にされていますか?
後藤 そうですね。ウディ・ガスリーの映画(『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』ハル・アシュビー監督、1976年、アメリカ)を見て、すごく感動しましたし影響も受けました。あとボブ・ディランとかニール・ヤングとか。ニール・ヤングはカナダ人ですけど、アメリカのミュージシャンは気骨というか、すごく芯がありますよね。社会的な要請もあると思うんですけど、それにちゃんと応えるというのはすごいなと思って。イギリスのミュージシャンよりは、そちらのほうに影響を受けてますね。起きたこと対してちゃんとコミットするというか、時代や社会に対してちゃんとリアクションする感じがあって。トム・ヨークがやってることはもう少し観念的というか、アートという地点に根ざしているような気がするんです。
―― もうちょっと直接的にメッセージを投げかけてくる人たちに、影響を受けたということですか。
後藤 トム・ヨークがアメリカ人だったら、もうちょっとやり方が違うような気がします。彼はイギリス人だから、やってることがすごくヨーロッパ的な感じがします。でも、どうなんでしょうね。
―― アメリカだとブルース・スプリングスティーンとかニール・ヤングとか、近年のブライト・アイズ(Bright Eyes)とかもそうですけど、自分たちもミュージシャン・コミュニティの中で社会のことを学んで、メッセージを発するようになっている感じがします。
後藤 そうですね。たとえば、反LGBT法が通ったノースカロライナ州ではライヴをやらないというアーティストがたくさんいる。彼らは、あらかじめ決まっていた公演をキャンセルしたりして。あれはすごいことだなと思いますけどね。日本だったら、ああいうことはやらないですよね。
―― その違いは何なんでしょうね。
後藤 何なんでしょうね。単に、日本のミュージシャンのほうが考えていないからじゃないですか? 考えていても、臆病な人が多い気もします。
―― 日本のほうが、縛りがきついんですかね。
後藤 僕は別に何にも縛られてないし、仕事もまったく減ってない。今、忙しくて本当に仕事を減らしたいと思ってます(笑)。だから、あまり関係ないと思うんですよね。社会的な発言くらいで売れなくなるようなものは、所詮その程度のものだったんじゃないかと思ったりします。あと、ミュージシャンではなくて、周りの大人が面倒くさがるんだと思います。そういうことをやられると、自分に何があるかわからないから「とにかくやらないでくれ」と言う。あるいは自主規制する。そういうことの連続じゃないですかね。落ち葉なのかミルフィーユなのかわからないけど、そういう気持ちが積み重なって。
―― テレビに出るんだったら制約があるんでしょうけど、音楽だけだったら関係ないですよね。
後藤 だって僕は、テレビタレントになりたくて音楽をやってるわけじゃないですから。出られないなら、出られなくていいですっていうスタンスで。コンサート、ライヴができて、やりたい音楽が作れればいいわけで。でも世間一般は、テレビっていうメディアを中心に捉えているような気がしていて。「そんなの、別に気にしなくていいじゃん」と思うんですけどね。「紅白に出られなくたって死なないよ」って(笑)。
―― アメリカだと、ミュージシャンが、トランプに「自分たちの曲を使うな」とか、サンダースに「自分たちの楽曲を使っていいですよ」とか言ったりしますね。いい意味で、音楽と政治・社会がすごく密接に結びついている。
後藤 そうそう。サンダースのフィギュアが売られていて、買うと寄付になったりだとか。僕の友人であるナダ・サーフ(Nada Surf)のマシュー・カーズも、サンダースの立候補にコメントしています。みんな政治・社会についてすごく考えていて、スマートですよ。
―― 日本のミュージシャンも、そうなってもいいですよね。
後藤 簡単にはいかないかもしれませんね。日本では、芸能界みたいな性質がすごく強い。そこでは、いわゆるアートみたいなものをないがしろにしてきたところがあるんじゃないかと思います。海外の人はわりと絵や写真を頻繁に買ったりするし、詩作についてのリスペクトもある。でも、日本にはそういう文化がない。あるいは後退してしまっている。単純に比較するのはすごく怖いことだと思いますけど、もう少し状況がよくならないかなと。自分ではミュージシャンだと思っていても、世間からは芸能人の物差しで計られるというか。たいていは「紅白に出られるまで頑張ってね」みたいな物言いになっちゃうから(笑)。いや、そうじゃないんだよと。でも、地方のおじいちゃんとかにそう言われたら、「ありがとう」って言うしかなくて(笑)。そういう状況が、少しよくなってくるといいなと。
―― でも後藤さんや坂本さんのような存在が出てくると、変わってきますよね。後の世代も、やりやすくなるのではないかと。
後藤 そうですね。僕は坂本さんや忌野清志郎さんを見て、「ああいうことって、やってもいいんだな。変わった人に見られているけれど、あの人たちは、当たり前のことを言ってるんだよな」と思ったりするわけです。僕らよりもあの世代のほうが過激だなと思うことはありますけど(笑)。僕らの世代には僕らなりの感じ方があるけれど、声を上げる人たちの背中を見ながら、「あれは当たり前だよね」と思ってほしい。社会に対して声を上げることも、「すごいよね」じゃなくて、「別に普通だよね」と思われるほうがいい。本当に、特別なことじゃないし。間違ってたら「ああ、俺は間違えました。すみません」って言ってやっていくしかないし。学者じゃないんだから、それはそうでしょう。科学者でもないし。
―― 「それは特別なことじゃないんだ」という雰囲気が広がるといいですよね。「ミュージシャンのくせに、政治のことを言うな」とかじゃなくて。
後藤 音楽の中に美しさがあるように、社会の中にも踏みにじられたくない美しさってあるじゃないですか。自分が好きな曲の歌詞を愛でるように。たとえば憲法9条って、読んだら美しい文章だと思いますよね? 美しいと言うか、ある種の理想が書かれているって思わないですか? 憲法はプラグマティックな、様々な情勢が関わってくるから、どうなの? という感じで揺さぶられますけど。この話をするのはすごく難しいんですけど、美しい一文があるのに、それを放棄して次には進めない。普段言葉を書いてる者からすると、それはものすごくもったいないというか。自分が白い紙に「これは!」と思うものを書いた後、それを破り捨てることはできないだろうから。そういう感覚で憲法を読んだっていいんじゃないかと思うんです。
9条には根源的な美しさがあるじゃないですか。国家と国家は戦わないほうがいいし、人と人は殺し合わないほうがいい。前文にも、そういう願いからこの憲法は生まれたと書いてある。そういう美しさについて語り合うことは、音楽的な美しさについて語り合うことと差がないだろうと僕は思う。
あとこれは当たり前のことですけど、世の中に困ってる人間なんていないほうがいい。そういうことを普通に言って、なにが悪いんだと思ったりするんですけどね。機会なんて、均等なほうがいいに決まってるだろう。どうして金持ちの息子だけが、その家に生まれたっていうだけでいい教育を受けられるんだ。これはおかしいだろうって。いったい何がフェアなのかと、常に社会全体で考える必要がある。当たり前のことだと思うんですけど、やっぱり難しいですね。そうやって言うと、お花畑とか言われちゃうし。
近代国家のこと
後藤 たとえば国、国家という考え方もそんなに歴史が長いわけじゃない。近代国家には「近代」という言葉が付いているぐらいだから、それほど古いものじゃないんだけど、さも国家が国家としてずっとあるかのように思ってしまっている。最近、民俗史や歴史の本が好きでよく読むんですけど、そういう本を読むと、自分が当たり前だと思っていたことがグワグワ揺すられて、バラバラに解体されていくんです。例えば、アイヌのことを知ると、今の日本が日本であることが全然自明じゃなくなるというか。「じゃあ僕のルーツはなんだろう。倭人?」みたいな。そういうの、あるじゃないですか。そう考えると、何だか所在ないですよね。
人間というのは国じゃなくて、土地に根差したものだと思います。ある種のボーダーありきで話が始まるんじゃない。芸術、ヴァイブスみたいなものは土地、地面から気のようにワーッと湧き上がってくるような気がします。それを共有している。捕まえている。いろんなことって、やはり土地に根差してると思うんですよね。
だから国みたいな考え方って、括りとしては大きすぎるんじゃないですか。国家と自分を同一化する人って、ある意味ですごい想像力だなと思います。国家と自分を同一化して、仮想敵を作る。そして何かあった時、さも自分が勝ったかのような気持ちになる。僕には、そういうことができない。国家と自分は同一化できないので。そういう大雑把な言葉や意識は、もっとバラバラに砕いていきたいと思う。
今は、一般化できないことまで一般化されてるような気がしますし。何でも、すごく短い言葉でまとめられる。日本人が「ジャップ」とか、そういう言葉やイメージでまとめられるのは嫌じゃないですか。1億2000万人に、それぞれの生活があり、キャラクターがある。それを全部真四角にするような言葉って、すごく怖いなと思います。だからこうやって話してても、断言するのが怖いから居心地が悪いというか。何か短い言葉でまとめて、「よし、俺は上手く言ってやった」みたいな感じが一番怖い。言ったそばから「ああ、違うかもしれないな」と思ったりしてね。だから話せば話すほど、書けば書くほど難しくなっていく。「何々人は何々である」と言うのは、「B型は性格が悪い」と言うぐらい大ざっぱですよね(笑)。「そんなわけあるか!」と思ったりするんですけど。
(2016.5.12インタビュー。第2回へと続く)