2018年5月、十数年ぶりにオレは「ばるぼら」を訪ねた。エンケンさんが愛したこの店には古くからの常連さんたちが集まっていた。誘ってくれたのはエンケンさんのパートナーの関端さん。常連さんの中にはエンケンさん関係者に加え湯浅学さんや根本敬さんもいた。この日はいなかったけれど渋さ知らズやらいろんなミュージシャンたちもずいぶん出入りしていたはずだ。でもオレが最初にこの店に行きだしたのは、ここにいる常連さんの誰よりも、エンケンさんよりも前のことで、1979年も終わろうとするころだった。
「ばるぼら」は歌舞伎町のはずれの数軒のバーがあるだけのうすっ暗い裏路地にあった。手塚治虫の名作漫画「ばるぼら」のロゴがそのまま書かれた看板の下にベニアでできたようなエンジ色の扉があって、その扉をあけると狭くて暗い階段。そこをあがっていってもう一つの扉を開けると四人掛けのカウンターと小さなテーブルが二つだけあって、カウンターにはもじゃもじゃ頭の若いんだか歳をとっているんだかよくわからない関西弁のマスターと、真っ黒い服でやはり年齢不詳の雰囲気ばりばりのママがいて、出来たばかりの店なのに、すでにすすけていて、マスターもママもそこに何十年もいるかのような貫禄で、そんな店に僕らジャズ研の若造どもは通うようになったのだ。マスターの名前はまさみちゃん、ママはにゃんこさん。ジャズ研の溜まり場といってもジャズはたまに流れる程度でメインはロック。そういえば、ここも「ピナコタ」と一緒でレコードじゃなくて当時はカセットだった。
一応説明しておくと、僕らの世代は、子供の頃は歌謡曲やグループサウンズ、中学くらいからはアメリカンヒットチャートやフォークにロック、そして日本のアイドルもので育っていて、だからジャズがヒットチャートなんかの日常の中にあったのはもっともっとずっと上の世代のこと。ジャズに興味をもったりジャズ研に入っていたりすること自体かなりの少数派で、もちろん僕らだって普段はみな普通にロックファンだったりしたのだ。「ばるぼら」で流れていたのはニール・ヤングやオールマン・ブラザーズ、ピンクフロイドにトム・ウェイツ、はっぴいえんどにエンケンさん、ジャニス・ジョプリンにジミヘン、そして小林旭とかの古い歌謡曲あたりだったと思うんだけど、「ピナコタ」のときほど音楽の記憶がないのはなんでかな。多分、音楽聴くことが目的ってよりは、この場所のアングラな空気感が何より好きだったんだと思う。それと、ここで出るつまみやメシも美味かった。関西育ちのまさみちゃんは、当時関東にはない西の食物をたくさん持ち込んでいて、僕ら若造が大好きだったのがお好み焼きに焼きそばが入ったモダン焼き。いまでこそどこでも食べられるけど、当時関東にこんなもんはなく、関東から西に行ったことのないオレにとっては焼きそばとお好み焼きを混ぜるなんて衝撃だったのだ。
最初にこの店に行きだしたのは一つ上の先輩、ベースとギターがめちゃくちゃうまい渡辺さんだった。はっぴいえんどや細野晴臣さんの音楽をオレに教えてくれたのも渡辺さん。でも激しいジャズに夢中だった当時のオレは、その良さ、あんまりわからなかったなあ。この辺の音楽を本当に感心して聴くようになったのは、自分でポップスを作るようになった90年代以降のことなのだ。その渡辺さんに連れられて「ばるぼら」に何度か行っているうちに、一人でもこの店にちょくちょく行くようになり、やがて他の友達とも行くようになった。生まれて初めてボトルを入れたのもこの店だった。すこしだけ背伸びしてズブロッカのボトルをいれたのはジャニス・ジョプリンが飲んでいたからってのもあるけど、アルコールが極端に弱かったこともあって、お水を何杯もおかわりしながらこいつをちびちび舐めるように飲むのが、一番経済効率が良かったからだけど、お店にしたら儲からない客だよなあ。今現在のまったくの下戸のオレを知っている人には、このあたりの話は意外かもだけど、当時は、お酒が呑める大人になろうと、一応は頑張っていたのだ。その後、まったく呑めなくなった事情については、ま、そのうち。
実は「ばるぼら」に通うようになったもう一つの理由があって、それはこの店の裏手のさらにもっと裏の方の職安通り沿いにあったカセットテープ工場でオレはバイトをするようになり、だからバイトの帰りにここにちょくちょく寄るようになったからなのだ。工場といっても小さなビルの一室にいくつもの高速録音機がおいてあるだけで、見た目は事務所。従業員は数人。カセットそのものを作るのではなくカセットに音をいれるダビングという作業をする工場だった。どんなことをするのかというと、薄いバウムクーヘンみたいな形に巻かれたカセットテープのもとになる12インチほどのテープのリールに、マスターの音を高速でダビングしていくんだけど、それがものすごい高速で、多分みなさんが想像しているおだやかなカセットの回転とは全然違って、唸りを上げてリールが高速回転して、わずか数分でカセット30本分が録音される。これを数台同時にまわすからものすごいモーター音だった。やり方が下手だとこのリールが崩壊しちゃったり、テープが途中で切れちゃったりするからそれなりにコツがいる作業で、録音を終えたバームクーヘンのようなテープを今度はプラスティックの長方形のカートリッジの中に収めてカセットの完成なんだけど、大量発注の場合カートリッジにテープを収める工程は別の工場でやっていた。
この工場で作っていたカセットの中身はというと、その多くはまったく興味がもてそうもないスーパーマーケットで流れているようなBGMだったり、英会話の教材だったり。中にはエロ本(当時はビニ本って言ってました)のおまけエロテープなんかもあったけど、意外と需要が多かったのは宗教団体のテープ。時には何千って発注があったりして、そこそこ有名な団体から、聞いたこともない新興宗教団体までいろいろあった。たいていは教祖の講話が収められているんだけど、あのとき宇宙人が攻めてくるからすぐにでも用意をとヒステリックに叫んでいた教祖は今どうなっているのかな。もしかしたら、オレが気づいていないだけで、とっくに宇宙人に攻め込まれていて、知らぬ間に地球は占領されているのだろうか。そうそう金儲けの秘訣を延々と語るテープも結構あった。こんなテープ聞いてるようじゃお金儲けなんて出来ないだろうと思ったけど、これも、もしかして真面目に聞いていたらオレ、今頃ビルを建てていたのだろうか。
このバイトのおかげで、何本買っても足りなかったカセットを好きなだけ調達できたのは本当に助かった。なにしろ当時はほとんどカセットで音楽を聴いていたんだもの。録音ミスの不良品カセットを持ち帰っただけじゃなく、不良でもないのに不良品ってことにして持ち帰ったりもしました。でも、それだけじゃとてもまかない切れず、そのうちここでバイトしていたジャズ研の先輩の末田さんが、空のカセットにブランド名を印刷したものを作って皆にほぼ原価で販売しだしたりして、なんて素晴らしいアイディア! のちのちオレはそのカセットを使ってコラージュをするようになり、カセットをバラしてループを作ったりって実験をすることになるんだけど、そんなアイディアは、ここでバイトしていたからこそ出てきたんだと思う。
工員にも面白い人が多くて、軽音楽部のロック研やジャズ研のバイト仲間以外にも、左翼くずれ風の読書家青年とか、機械やバイク好きの陽気な青年とかがいて、この二人には随分影響を受けた。なんかオレ、仲良くなると影響受けやすいのよ。まずはバイク好きの青年にうまく乗せられて原付の免許を取りに行き、彼の持っていた中古原付バイクを2万円で購入。HONDAのCB50ってやつだったかな。のちのちこのCB50を、友人が乗っていたダックスホンダって名前のミニバイクのはしりみたいな原付と交換して、20代の頃は都内はもとより福島の実家に帰るのもダックスホンダだった。でもって読書青年からは、
「大友くんもこういう本読まなきゃ」
とかいわれて花田清輝や埴谷雄高、吉本隆明あたりを何冊も借りては読んでみたんだけど、う~~~ん、ほんと、ごめんなさい。「楕円」とか「幻想」とかって言葉が、頭の中をグルグルするだけで、そもそも読めない漢字だらけで、ちんぷんかんぷん。高校もちゃんと出てないオレに、いきなりこれはハードルが高すぎた。高すぎたけど、人間、自分にわからんもんがあることを思い知るのは大切なことで、本の中身はさっぱりわからなかったけど、でも、この青年が説明してくれる現代思想のようなものに、興味を持ち出したのも事実だった。宗教テープに感化されることはなかったけど、でも、わからないなりに、この難しい本の中に出てくることには何かあるように思えたのだ。でもって、オレが最初にやったのは漢和辞典を古本屋で手に入れて「漢字ノート」を作ること。知らない漢字をノートに書き出して読めるようにしていくだけなんだけど、う~~ん、なんかピントがあっているようなズレているような勉強方法だなあ。でも、あの難しい本たちをなんとか理解したいと思ったのだ。でもさ、こんなこと自分でやるくらいなら、せっかく入った大学にちゃんと通えばいいのにって話ですよね。やっぱオレ、ピントがズレてる。
結局、ここで借りた本で一番感化されたのは、同じバイト仲間の軽音楽部先輩の木佐木さんが貸してくれた殿山泰司の本の数々だった。殿山さんといえば、当時はその顔を知らない日本人はいないってくらいテレビドラマや映画でおなじみのハゲ頭の名脇役だったのだけれど、オレにとっての殿山さんはフリージャズの最高の紹介者であり思想家でもあり、そのエッセイの中にでてくるアナーキーでナンパな発言に痺れ、氏が足繁く通ったフリージャズのことを書いた文章を見ては、殿山さんが行きそうな現場を追いかけたのだ。照れ屋に違いない殿山さんは決してストレートな物言いはしなかったけれど、でもアナーキーな文章の背景に、流れる自由への渇望とフリージャズへの愛が垣間見えるところにオレはきゅんと来たんだと思う。殿山さんを突き動かしたのは戦前のモダン文化と強烈な戦争体験で、この辺のことが描かれている殿山さんの名著『三文役者あなあきい伝』、機会があったらぜひみなさんにも読んでほしいなあ。素晴らしい本です。
以前にも書いたけど殿山さんをライブ会場で最初にお見かけしたのは高校3年生のとき。渋谷ジァン・ジァンの高柳昌行ニューディレクションのコンサートのことで、この時のお月さままで飛んでいきそうな大爆音のコンサートの様子は『JAMJAM日記』にも出てくるんで興味ある人は要チェック。それ以来、何度となくラフなジーンズ姿にサングラスの殿山さんを客席でお見かけした。東京に出てきた当初より、ライブに行く頻度は減ったとはいえ、相変わらずフリージャズのライブには通っていて、迷っていたとはいえ、その現場に入っていきたいって気持ちがくすぶっていたのもまた事実で、木佐木さんが貸してくれた『JAMJAM日記』でその気持ちにさらに火がつき、オレは再び殿山さんが通う高柳昌行や山下洋輔、富樫雅彦のライブに通うようになったのだ。
殿山さんは大抵、目立たないように端っこ後方の席に一人で座っていた。オレはほんの少し離れたところに座って、それとなく殿山さんの様子を観察しながらライブを見ていた。殿山さんはいつもほとんど動かずに目立たないように静かにライブを聴いているだけなんだけど、後にも先にもあんな素敵な音楽の聴き方をするお客さんを見たことがないってくらいかっこ良く見えたのだ。オレもいつかあんな大人になりたいと思ったもんだけど、今現在、当時の殿山さんの年齢になってみてしみじみと思うんだけど、やっぱ無理、全然無理。あんな素敵な音楽の聴き方が出来る大人になるなんて自分にはもうまったく無理でした。殿山さんにあこがれて『大友良英のJAMJAM日記』を書いてみたり、実はこの連載も名著『三文役者あなあきい伝』の影響で書いていたりするんだけど足元にも及ばない。だいたいですね、殿山さんはハゲ頭で堂々とかっこよかったってのに、オレはといえば毛が薄くなり出した途端に大慌ててドーピング。「反減髪」とかクソくだらないこと言いながら、毛髪延命措置を講じているわけで、あ~~もう、そこからしてかっこ悪すぎるがな。かっこ悪いぞ、大友!
2018年5月、「ばるぼら」は40年の歴史を閉じた。久々に常連が集まった数日後のことだ。最後まで店の風情も、置いてあるカセットも一緒だったけれど、でも一歩外に出るとあたりはもう別世界ってくらい賑やかになっていて、「ばるぼら」の看板はまわりのLEDの光に埋もれてほとんど見えなくなっていた。店を出たオレは、なんとなく職安通りに向かって歩いてみたくなった。カセット工場は今もあるのかな。かつての裏路地も職安通りも、深夜だってのに今やLEDキッラキラのコリアンタウンだ。歩くこと数分。
「あった!」
そう、今も職安通りにあのビルが残っていたのだ。表札にはハングル文字もいくつかあって、さすがにカセット工場はもうなかったけど、タイル張りの外壁もガラス扉の向こうの古びた階段も、ビルの名前も全く同じだった。しばらく前に立っていたら、どこかから、あの唸るような高速録音機のモーター音が聞こえてくるような気がして、思わず扉の向こう側を覗いてみたけれど、そんなものはどこにもあるわけがなく、ガラスの扉に半端に老けた自分の姿が映っているのが見えるだけ。なんかかっこ悪いなあ、オレ。殿山さんへの道は、はてしなく遠い。