上海に転勤して、7月でちょうど一年になる。生活にも少しは慣れたが、忙しさや入手の難しさもあり、本当に本が読めない。
文章もまともに書いていないのに出版社の方からたまに本を頂くのが、申し訳ないけれど嬉しい。亜紀書房の編集者・田中さんから先日、上品なピンク色の帯の画集が届いた。『常玉 SANYU 1895-1966 モンパルナスの華人画家』(編:二村淳子)。近代美術界では有名らしいが、わたしは田中さんに教わってはじめて知った。
猫や裸婦、広い夜と地平線を前にベロを伸ばしてあくびする豹。のびやかな線と愛らしい色合いだが、どこか寂しい。金や契約に縛られるのを嫌う生き方で、台湾で地位を約束されたこともあったがパリで没している。祖国が懐かしくなることはありませんでしたか。わたしはわりと恋しいんですけど。と、そっと聞いてみたくなるような絵。
田中さんとはこれまで2冊の本を作り、今も関わった本を贈ってくれる。長い手紙よりいろんなものが伝わる気がして、わたしももう少しがんばってみようと思う。
ネットは本当に便利で、直接連絡しなくてもなんとなく友達の近況がわかる。それでも地理的に遠いというだけで、あの人元気かな、と考えることが増える。中国で旅行や買いものに行くと、誰に渡すか決めていないおみやげをやたらと買ってしまう。
『浮遊霊ブラジル』を読んでから津村記久子の小説が好きで、日常の中でだれかを思うことを描くのがなんでこんなにうまいんだろう、と思う。『これからお祈りにいきます』(角川文庫)には、祈りに関する2編が収録されている。「サイガサマのアッカーマン」は、願い事のかたに神様に取られたくない臓器を工作し、人型のはりぼてに入れて燃やす祭りがある町に暮らす高校生の話。一見不気味な風習だが、サイガサマは人から体の一部を奪わないと力を使えないだけでなく、間違えて大きすぎる代償を取ることもある「できない子」の神様だ。主人公は家族や日常に不満を抱え、風習にも反発しているが、祭りをめぐってだれかがだれかを思うエピソードが積み重ねられていくうちにある行動を取ることになる。
「バイアブランカの地層と少女」でも、冴えない大学生が地球の裏側に住む少女と知り合い、彼女のために祈ることが怖がりの主人公を少しだけ変える。だれかを思うことが自分のお守りになる、といえば陳腐だが、それはぱっとしない日常を何とかするために必要な法則のひとつだ。
夏休みで日本に一時帰国して、福音館書店に打ち合わせに行った。帰りに一階の販売スペースに立ち寄り、科学絵本を物色していて『くまのパディントン』(作:マイケル・ボンド/訳:松岡享子)に目がとまる。ペギー・フォートナムの挿絵が懐かしいなあと、何気なく買ってとんでもない目にあった。
昔読んだ記憶では、パディントンはすぐにその辺をぐちゃぐちゃにしてしまう“ザ・男子”で、クマを通して子供の日常をかわいらしく描いているという以上の印象はなかった。ところが冒頭、暗黒の地ペルーからロンドンまで密航してきたクマが、駅で首に札をかけて座っている辺りからどんどん心が重くなり、声をかけたブラウン夫妻にはきはきと受け答えするクマに胸がつまる。家族に迎える際に「つまり、きみのほうで、ほかに何にも予定がなければってことなんだがね」という言葉を使うブラウン氏のやさしさ!
パディントンが無邪気に「ぼく、移民してよかった。」と言いながら菓子パンのお皿を引き寄せた瞬間、あの頃にはわからなかったことが心を殴りにきた。今の読み方が正しいかどうかではなく、行くあてがない子供はこんなふうに扱われないといけないのに、実際の世界は全然そうじゃないんだと思うと、ものすごくつらい。
帰るところがあっても知らない場所に行くのは心細いのに、どんなに怖かっただろうと思うと、それ以上読み進められず涙目で眠る。何も考えずにこのお話を楽しめた小さかったころ、わたしはこの上なく守られていたのだ。朝になったらもうちょっと世界をましにしに行きたいと、朝になったらだいたい忘れてしまう決意をする。
東京の家で急ぎの仕事のメールがないかチェックしていたら、中国での同僚の女の子から来たメールのタイトルに【休暇後に読んでください】と入っていた。ちょっとした心遣いを紐にしてたぐりながら、少しだけ冷たい水に身を沈めるように、また外国での暮らしに戻っていく。慣れるにつれて呼吸が深くなっていくことも、別の海には見たことのない鮮やかな魚や海藻がいることも、わたしはもう知っている。