砂漠の迷子
あたりに何も目じるしのない砂漠で迷子になると、自分ではまっすぐ歩いているつもりでも、実は歩みは曲がっており、足跡は弧を描いているらしい。だからやがて眼前に自分の足跡を見つけて「この人の足跡についていこう」とすると、永遠に砂漠で円周上を歩き続けることになる。
この話は昔何かの本で読んだもので、本当か定かでないのだが、いかにもありそうで恐ろしいと思う。
自分が気付かないうちに、円周運動を続けることになった砂漠の旅人。本物の迷路には入口も出口もないのだ。
どこかにひとつ、灯台のような目印があれば、いずれ旅人は自分の歩みが屈曲していることに気づくだろう。だが目印がひとつもないと、その把握はきわめて困難だ。
わずかに曲がった足どりが、やがて本来向かうべき方向と大きくずれ、傍から見るとわけの分からないことをしている。本人は必至のつもりだけれど、目印がないので、歩みの角度をどれだけ補正すればよいのか判断できない。
人間が少しずつ狂っていくことが、私はひどく恐い。ときどき自分が狂っていることを疑念しては、いや、まだだ、たぶん違うと振り切るように思い直す。とにかくまともにやろう、遅刻しないようにしよう、約束を守ろう、変なことを言わないようにしようと心に願う。誓えるほどの自信はないから願うにとどめる。そして一時的に安心したような気になる。
でもたまに、自分の何かがおかしくなっているのに気づくこともある。
東京砂漠の陥穽
以前、一時的に企業や官庁での仕事が重なり、毎日のように都心の異なるオフィスビルに向かう時期があった。建物まではタクシーで行くので、ビルの名前さえ覚えていればことは足りる。会場が建物内のどこであるかは、一階の受付に聞いたり、人が迎えに来てくれたりするから覚えてなくていい。要するに適当に会場に向かっていけば、適当に到着できるのである。
東京砂漠とはいうけれど、実際の東京は砂漠とはえらく違う。とくに担当者が一階ロビーで待ってくれている場合は、先方が手際よく私をつかまえに来るので非常にラクである。呆けた顔で「ぼくちんを見つけて~」と入館したら、表情を引き締める前に見つけてもらえる。
それが日常となっていると、気づかないうちに、自分の感覚がズレていった。
適当に建物まで到着すればあとは自動的に会場に着くものだと、心が徐々に覚えていってしまったのだ。
私は普段、大学の「三田キャンパス」というところで仕事をしているが、別の「日吉キャンパス」でも定期的に用務がある。私はある日、翌年度のゼミ生募集の説明会をするため、日吉キャンパスに足を運んだ。東横線の日吉駅で降りると目の前が日吉キャンパスなので、これは場所を間違えようがない。のびやかな中央通りの左右に大きな銀杏並木がそびえる美しいキャンパスだ。
キャンパスの入り口はゴールではない。日吉キャンパスには何百もの教室があるから、そのなかのひとつである会場の教室までたどり着かねばならない。だがこのとき、私は何も考えずキャンパスの入り口に突っ立って、呆けたように迎えを待った。もちろん5分待てども10分待てども、迎えの担当者は来ない。自分が勤務する大学のキャンパスでの通常業務なので、当たり前である。
やがて開始時間がおとずれて、おい、遅い、これでは遅刻するぞと思ったときに、ようやく自分が間違っていることに気づいた。あまりのまぬけ具合にびっくりである。それから大慌てで会場をスマホで調べて、全力で走ってそこに向かった。おしゃれだけど歩きにくい靴で走ったので、あとで足首とふくらはぎの調子がおかしくなった。
結局、遅刻はわずかで済んだのだが、パソコンやプロジェクターを準備する時間はなく、用意していたパワーポイントのスライドはすべて無駄になった。ゼミに関心をもって来てくれている学生の前で、平静を装うよう努めてみたが、動揺していてうまくしゃべれなかった。
このときは本当に、自分はどうかしていると思った。
砂漠をさまよう事務次官
2018年4月、度重なるセクハラ発言で非難を浴びた財務省の事務次官、福田淳一氏が、辞任するはこびとなった。女性記者へのセクハラを最初に報道した週刊新潮は、入手した発言の音声データをウェブサイト上で公開している。
怖いものみたさで音声データを聞いてみたが、内容は「これは紛れもなくセクハラ」というようなものであった。会話の合間あいまに、「おっぱい」とか「胸もんでいい?」とか、謎の性的フレーズをはさみ込むのだ。正直、けっこう気色わるいので、今日は気色わるくなりたい気分だという人にはおすすめである。
一般に、行為のどこからをセクハラとみるべきなのか、線引きは必ずしも容易ではない。しかし近年のセクハラ認定の相場からいえば、かなり甘めに線引きをしたとしても、福田氏の発言は余裕でセクハラ側に入るだろう。
私が興味深く思うのは、福田氏は、自身の発言をセクハラとは考えてなさそうなことだ。実際、彼は退任の会見で「やり取りの全体をみれば、セクハラに該当しないのは分かるはず」と、かなり本気で言っている様子である。
その気持ちは全く分からないわけではない。福田氏は相手の身体を物理的に触っていないし、過度に生々しい表現は使っていないからだろう。しかし、だから何だというレベルで、アウトな発言を連発したのだから仕方がない。
テレビのニュースで福田氏を見ていると、この人はいつからそんな風になったのだろうと思う。若手の頃から女性記者にセクハラ発言をすることは、さすがになかっただろう。そしてまた、息を吸うようにセクハラ発言をするいまの様子を見ると、最近になっていきなり始めたわけでもなさそうだ。多分あるとき、ちょっとセクハラ発言をしてみたら、それが容認されて、続けているうちに当たり前になって、いまの練達の域にいたったのだろう。
そしてもはや彼は、自分の発言がセクハラだと分かることもできない。砂漠に円周をえがく自分の足跡を、まっすぐだと信じている。こんなことで事務次官を辞任するなんて、ひどく理不尽に感じているだろう。
私は福田氏を庇いたいとは思わないが、ごく単純に、もっと前に誰かがきちんと注意してやればよかったのにとは思う。そしてそんな面倒なことは、誰もしないだろうなとも思う。
誰か俺に注意してほしい
子どもの頃は悪いことをしたら注意してもらえた。しかし大人になるにつれて、その度合いはどんどん減っていく。仕事を続けて、歳を重ねて、地位が上がるにつれ、人から注意を受けなくなっていく。そんな親切は誰もしてくれないというか、そんなコストを誰も払ってはくれない。
ただあるとき、市場に評価される。もうこの人はいいやと思われたら静かに切られる。あなたの何が悪かったからと、丁寧に教えてはくれない。
誰か、自分を定点観測している人がいて、軌道がズレたときには早期に教えてくれたらいいのにと思う。そのようなアドバイスをしてくれる人がいたら、まっすぐラクに砂漠を抜けられるはずなのに。
ではいったい誰にそんなことができるのだろう。思いつく条件をあげてみたい。
利害の一致
仕事上の競争相手や、ひそかに私の失敗を願う者は、私にアドバイスをするインセンティブがない。私の成功とその人の成功はリンクしていたほうがよい。
費用対効果
アドバイスをするのは心理的な労力がかかることなので、一時的にしか付き合わない人や、私に高い価値を認めない人は、わざわざアドバイスはしない。
異常の感知
日常的に一緒にいる人は、私が徐々におかしくなっていくことに気づきにくい。ブラックコーヒーに一滴ずつミルクを足していったらやがてカフェオレになるが、その一回一回の過程で変化に気づくのは無理である。
私にとって、これら3つの条件を満たすのは「故郷の両親」くらいしか思いつかない。正直私もいい年をした大人なので、いまさら親に頼りたくない気持ちはあるのだが、思い起こしてみると父母がたまに寄越す(耳の痛い)アドバイスは、大抵がおそろしく的確である。
これも私の場合だが、妻や友人は、私が徐々におかしくなることを、慣れたり、受け入れてくれたりで、異常とは検知してくれない。たとえばあるとき、私の金銭感覚が狂ってカード破産しかけたときに、妻は私の変調に同調して一緒に散財したし、友人は「坂井くんはおもしろいなあ」と笑ってくれた。一方の親は「最近のお前はどうかしている」と的確に判断し、私はそれを受けてなんとか人生の軌道修正ができた。
ただし親は歳をとるし、とうに幼児の時期を過ぎた私を日常的に観察しているわけではない。
定期的な健康診断のようなものが、日常生活や仕事上の行動について、あればよいのにと思う。そういう第三者による診断サービスを誰かに提供してほしいと思うのだが、いまのところ市場で発売されている様子はない。だからせめて、イエスマンばかりと付き合わないとか、人の話を素直に聞くようにする、くらいのことしかできない。
よく組織のガヴァナンスが大切だといわれるし、そのためには第三者による検証が有効とも聞くのだが、そもそも個人のガヴァナンスも大切で大変である。
そういうわけで最近の、財務省の元高官による不祥事について、いやだなあとは思うのだが、ぜんぜん嗤うつもりになれない。