ひと言で言うなら、哲学は人間的な「意味の世界」の本質を探究するものだ。一方の科学は、「事実の世界」のメカニズムを明らかにする。
多くの人が信じているのとはまったく逆に、「意味の世界」は、実は「事実の世界」に先立つものだ。客観的な「事実の世界」があって、それに人間が「意味」をくっつけているわけじゃない。反対に、僕たちの「意味の世界」のアンテナにひっかかってはじめて、「事実の世界」は僕たちにとって存在することができるのだ。
その意味で、哲学は科学をその根本から支えるものだ。「意味の世界」の本質を理解しないかぎり、「事実の世界」のことも、僕たちは深く知ることはできないからだ。
「事実」をめぐる対立
とはいえ、科学はふだん、そんな面倒くさいことを考える必要はない。
物を手放せば落ちるとか、地球は太陽のまわりを回っているとか、そういったことは、とりあえず僕たちのだれもが“事実”として認識している(信じている)ことだ。だからその“事実”を、「いやいや、これも本当は絶対の真理じゃないかもしれない」なんて、いちいち考える必要はない。
でもその一方で、科学には、「そもそも事実って何なんだ?」と考えなければならない時がある。
それはとりわけ、“事実”とされるものが人によって異なる時だ。
社会科学(経済学、政治学、社会学、歴史学、教育学など)と呼ばれる分野において、これは時に大きな問題になる。
たとえば、教育学や社会学の世界では、さまざまな科学的(統計的)な調査を通して、子どもたちの「学力低下」の“事実”を指摘する人たちがいる。でも他方では、そんな“事実”なんかないと主張する人もいる。
なぜそんなことが起こるのか? その一つの理由は、人によって何を「学力」とするかにズレがある点にある。
つまり彼らは、互いに異なった「意味の世界」を生きているのだ。だから、「事実の世界」においてもまた、両者はまったく異なった認識をしてしまうのだ。
そんな時、僕たちは、「そもそも学力とは何か」という“意味”の本質を探究する必要がある。その“共通了解”を見出す必要がある。そうでなければ、教育学や社会学は、対立や混乱を果てしなくつづけることになってしまうだろう。
「意味の世界」の“本質”を探究する哲学は、だから常に、社会科学の土台になければならないものなのだ。
そもそも「恋」ってなんだろう
いや、物理学や脳科学などの、いわゆるハードサイエンスの世界でさえ、哲学はやっぱりその土台を支える必要がある。
たとえば、僕はかつて「恋愛の科学」についての論文や本をたくさん読んだのだけど、その時「あれ?」と思ったことがあった。
前回も言ったように、人が恋をしている時は、脳内からフェニルエチルアミンやドーパミンやオキシトシンといった化学物質が出ているという。
でも、僕が読んだかぎりでは、そもそも何をもって恋とするかにおいて、恋愛を研究している脳科学者たちの間にはどうもズレがあるようなのだ。
人によっては、それは“愛”とほぼ同じものと考えられていた。また人によっては“性欲”と同一視されていた。そんなふうに、人によって何を“恋”とするかがバラバラだから、研究の成果にもかなりのばらつきがあるように見えた。
そんな時、脳科学者も、やっぱり「そもそも恋って何なのか?」と、その“意味”の本質に向き合う必要がある。そうでなければ、それぞれが思い思いにとらえた恋を研究することになって、恋の脳科学は、いつまでも混乱しつづけることになるだろう。
要するに、「恋の哲学」が先になければ、「恋の科学」もまた、ほんとは成り立たないはずなのだ。
もちろん、科学はいつでも哲学を必要とするわけじゃない。物理学のような、だれがどう見ても同じ“事実”と思えるものをあつかう学問が、哲学を必要とすることはそう多くはないだろう。
でも、もしも科学者たちが、「あれ? 自分が研究しているこの事実って、そもそもいったい何なんだ?」と疑問をもつことがあったとしたら、その時こそ哲学の出番なのだ。
哲学は科学を導く?
もう一つ、これまでとはちょっと別の観点から、科学の土台としての哲学についてお話ししておきたい。
現代の科学技術の進歩はめざましい。その恩恵は、どれだけ強調してもしすぎることはない。
でもその一方で、「◯◯できる」ことが、即座に「◯◯していい」ということには、必ずしもならない。
たとえば、原発。
僕たち人類は、原子力発電の科学技術があるからと言って、この地球上にいくつも原発を作っていいものなのだろうか?
あるいは、クローンや遺伝子操作といった、生命倫理にかかわる技術。
2005年に公開された、ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソン主演の『アイランド』という映画には、臓器移植用に“飼育”されるクローン人間たちが登場する。彼らは、そうとは知らずに隔離施設の中で日々を暮らし、そして時が訪れると、臓器移植のため施設を連れ出されるのだ。
そうしたことが、今後現実に起こらないとはかぎらない。
でも、それははたして“よい”ことと言えるだろうか?
昨今の脳神経科学の発達も、同じような問題を僕たちに投げかけている。
たとえば、今や人類は、スマートドラッグという薬によって、記憶力などの脳機能を爆発的に高めることが可能になった。ニューロエンハンスメントと呼ばれている。
でもそれって、本当に“よい”ことと言えるのだろうか?
いいとするなら、どの程度まで? だめだとするなら、いったいなぜ?
こうした問いに、科学だけで答えを出すことはできない。なぜならこれは、文字通り“意味”や“価値”の世界の問題だからだ。つまりこれらは、本質的に哲学的な問いなのだ。
絶対の答えは、もちろんない。でも哲学は、これらの問いに、“共通了解”可能な答えを見出そうととことん考える。そしてその“答え”をもって、時に科学の行く先を指し示す必要があるのだ。
こうして僕たちは、連載第1回でお話しした「哲学ってなんだ?」という問いに舞い戻ってきた。
哲学、それは、さまざまな物事の“本質”を明らかにするものだ。恋の本質、人間の本質、言葉の本質、教育の本質、よい社会の本質……。
“哲学的思考”とこの連載で呼んでいるものは、こうした物事の“本質”を明らかにする思考の方法だ。
科学が、観察や実験を通して「事実の世界」のメカニズムを明らかにするように、哲学にもまた、「意味の世界」の本質を明らかにするための独自の方法がある。前にも言ったように、哲学は2500年の長きにわたって、その思考法を徹底的に磨き上げてきたのだ。
次回からは、その思考の“奥義”を、初歩の初歩から一歩ずつお伝えしていくことにしたいと思う。