現代写真史の「生き証人」・スティーブン・ショア
いつ、どこで会ってもスティーブン・ショア(b.1947)は静かで温厚な微笑みを絶やさない。メガネをかけた白髪のジェントルマンは、バードカレッジで1982年以来、長く写真についての教鞭をとっていることもあり、極めて知的な佇まいを崩すことはない。
彼が17歳の頃、あの今や神話的な虚栄工場とも言えるアンディ・ウォーホル・ファクトリーの住人であり、その記録写真から制作をスタートさせたなんて、すぐには、誰も想像できないだろう。
それは大きな神秘である。
2017年の11月から2018年の3月にかけて、ニューヨーク近代美術館 MoMAで大回顧展「Stephen Shore」が開催された。今もYouTubeで検索すると、すぐにショア自らが登場し、過去40年に渡って撮られてきた約600点もの写真が展示された各部屋を、明確に解説してくれる映像を見ることができる(「HOW TO SEE the photographer with Stephen Shore」)。彼は見事に、彼の写真が「見ること」の深化の過程として、どのように成長してきたかを説明するのである。
しかしだからと言って、14歳のときに、当時のMoMAの写真部長だったエドワード・スタイケンに作品を見せ、購入されたある意味での「天才写真少年」が、五十数年を経て「現代写真」の巨匠にとどまらず「コンテンポラリーアート」の巨匠として「どうして成功したのか」、「何においてエスタブリッシュしたのか」が、すぐに理解できるかは別の問題である。
なぜなら、そこに並んだ写真の大半は、「どこにでもある日常」であり「退屈な風景」。アイドルやヌード、美しい花が被写体ではない「アンチクライマックス」な写真ばかりだからである。
しかも、このような写真はスティーブン・ショアだけのモチーフでもアプローチでもない。
「写真家」たちは「世界」を撮ることによって「作品」をつくってきた。ウィリアム・エグルストンがやってみせた写真の「デモクラティック」(別の言い方をすれば「エクイヴァレント」)な展開は、この世界にあるもの全てが等価であり、人間中心的なヒロイズム、美醜や善悪を超えたところを提示できることに、写真の革新性(核心性)があるのだという重要な「シフト」であった。
「ロード」を写真の場所とすること。
ショアもまた、ロバート・フランクからゲイリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーらが捉えてきた、文明の最先端の地であると同時に、世界の辺境・荒野である「アメリカ」を意識的に被写体とするロード系の「写真家」に連なる者でありながら、しかしそのような「写真史」から明らかに逸脱することができ、シフトし、変成することができたユニークな存在なのである。
この異質性の動因を探らない現代写真論は、明らかに片手落ち、と言わざるをえないだろう。70年代からの40年間で、「写真」に起こったシフトとは何なのか。それはわれわれの「起源」を問うことであり、「来るべき写真」に大きな示唆を与えるだろう。
ショアは、その証人なのだ。
スティーブン・ショアがなぜに、「コンテンポラリーアートとしての写真」のパイオニアとして高い評価を勝ちえたのか、その価値生成、変成についてわれわれは考えなければならないのである。
まずわれわれは、ショアの「起点」となる、60年代後半から70年代に、写真とそれを取り巻く状況にどのような変化があったのかをチェックする必要があるだろう。
ショアは2016年にベルリンの写真美術館C/O Berlinで、展覧会とレクチャーをやったことがあるが、そのときに自ら、彼の写真からのシフト、写真の別の道について語っている(これもYouTubeで見ることができる。必見のレクチャーである)。
1965年から3年間の、アンディ・ウォーホルのファクトリーにおける体験。そして1968年ストックホルムの美術館Moderna Museet(当時の館長はポントゥス・フルテン)でのウォーホル展を、若きカスパー・ケーニヒがキュレーションしたのだが、そのときにショアはケーニヒから「コンセプチュアルフォト」をインスパイアされたことを語っている(具体的にはエド・ルシェに触発された)。ちなみにカスパー・ケーニヒはその後、河原温を世界的なアーティストに押し上げ、ミュンスターの彫刻ビエンナーレを切り盛りする伝説的なキュレーターとなった。
ショアは、写真の表象においてはエグルストンと多くの共有点を持ちながらも、写真へのアプローチ、意識化、戦略性は驚くほど異なっている。
彼は自らが「かつて」撮った写真の意味(先回りして言えば、「表面(サーフェイス)」の意味)を、常に再編させ、リシンキングしながら進んでいく。
多くの写真家は、結局モダニズムの枠から脱出できないことが多いが、ショアは早くからポストモダニティを身につけていたとも言えるだろう。彼は、「かつて」を常にアップデートし、C/O Berlinなど数多いレクチャーで更新し続けているように僕には見える。
ソンタグの『写真論』を読む
議論を急ぐ前に、ちょっと迂回して、当時の写真状況を検証しておこうか。
70年代にいたる写真のラディカルなありようを最もキャッチできたのは、1977年刊のスーザン・ソンタグによる『写真論』であり、ショアを論ずる前には避けて通れない。
「写真論」と邦題にはあるが、原題は『On Photography』であり、正確には写真を素材とした批評エッセイ集と言えるだろう。もっと極論すれば、60年代末から1973年に撤退するまでの泥沼化したベトナム戦争が引き起こすアメリカ内部の自壊──。その文明論を、時代の鏡である写真をモチーフに語っていると言ってよい。
『写真論』巻末に収録された断章集「引用の小冊子――W・Bを讃えて」には、象徴的に、ロバート・フランクの「いまじゃなんだって写真にとれるさ」というコトバもセレクトされている。ドイツ籍スイス人であるフランクが、第二次世界大戦直後の1947年アメリカにたどり着いたときの、虚脱と解放を感じるこのコトバを、ソンタグはどこから探してきたものか。
『写真論』の背景となる、通史的な重要点を挙げてみよう。
●1938年 まず全ての前史として最重要なウォーカー・エヴァンス写真集『アメリカン・フォトグラフス』刊行
●1958年 ロバート・フランク写真集『アメリカンズ』刊行
●1966年 ネイサン・ライアンズのキュレーションによるグループ展『同時代の写真家たち―社会的風景に向かって』(ダニー・ライアン、デュアン・マイケルズ、ゲイリー・ウィノグランド、ブルース・デヴィッドソン、リー・フリードランダー)
●1967年 ニューヨーク近代美術館でグループ展『ニュー・ドキュメンツ』(ダイアン・アーバス、ウィノグランド、フリードランダー)
●1970年 リー・フリードランダー写真集『セルフポートレート』刊行
●1971年 ダイアン・アーバス自殺。翌年MoMAで遺作展
●1974年 ロバート・アダムス写真集『ニュー・ウエスト』刊行
●1975年 ゲイリー・ウィノグランド写真集『女性は美しい』刊行
同年、ジョージ・イーストマン・ハウス写真美術館でグループ展『ニュー・トポグラフィックス』(アダムス、スティーブン・ショア、ルイス・ボルツ、ベッヒャー夫妻など)
●1976年 ウィリアム・エグルストンのMoMAでの展覧会『ウィリアム・エグルストンのガイド』が行われ、写真集も刊行
●1977年 MoMAでウィノグランド写真展『パブリック・リレーションズ』
ちなみにショアの個人写真史と重ね合わせると、彼が23歳でメトロポリタン美術館で個展をしたのが1971年、これから語ろうとしている初期の「ロードトリップ」作品である『American Surfaces』が撮られたのは1972年から翌年にかけてであり、上記の時系列の真っ只中にある。
ソンタグの『写真論』は、まさにこのような写真群を背景とした中で書かれた。ソンタグは、ウォーカー・エヴァンスからロバート・フランクら「アメリカ」をモチーフにした写真群をベースに論じているが、前面に押し出して論じたのはダイアン・アーバスについてであった。逆にスティーブン・ショアの写真への言及はない。
ソンタグの、アーバスを通じて提起する第一の論点は、「平等性」と「排除」の問題である。ホイットマン流の「万人」「大衆」の幸福、「全ての人」とその対極にある排除された民(アーバスにおいてはフリークス)の関係を取り上げている。この提起は、社会論的なものにとどまるものではなく、隠されたもの、呪われたものを被写体とすることにより、写真の強度が獲得されるという宿命を宣告している。後年の、ソンタグ自身による戦争写真をめぐる展開、あるいはイメージにおける歪形という今日的な問題へも繋がっていく。
また、ソンタグの重要な視点はもう1つある。
それは、アメリカにおける「現実」と「超現実(シュルレアリスム)」の相関である。あらかじめ失われたもの、深層無意識の力によって芸術を捉え直そうとしたアンドレ・ブルトン流の衒学趣味は、アメリカでは高速で動く資本主義の渦の中で変成する。内部にあるはずの骨が全て表面化した昆虫のように、全ては剥き出しになり、逆に内面はからっぽになる。アーバスの奇形へのまなざしは、フリークスのみならず、日常生活を送る人々の表面にも外延してゆくのである。
そう考えたときに、ないものねだりなのだが、ソンタグがまとまった「アンディ・ウォーホル論」を残さなかったことが、悔やまれる。彼女なら見事に「表面論」、そしてウォーホルから繋がるスティーブン・ショア論を書いたかもしれない。
変成とは、ここにあるものが、別の意味を持ち始めることだ。それは外見が歪形する場合もあれば、精神病のように、当たり前の外観のまま不可視に出現する場合もある。
さていよいよわれわれは、スティーブン・ショアにおける第一の変成について語るときが来たようだ。
ソンタグが『写真論』を書いた背景となる写真史にショアは、そこに「いながら」、しかしそこからシフトして「いない」ように見えるのはどうしてなのか?
ウォーホル・ファクトリーでの洗礼──シリーズ性と反復性の重視
ウォーホルのファクトリーでの経験は、ショアの中で、写真変成についての大きなものとなったことは間違いない。ショアは彼の写真の良き理解者である作家・批評家のリン・ティルマンとの対話の中でも、ファクトリーでの体験を告白している(ちなみにリン・ティルマンはショアのアンディ・ウォーホル本『The Velvet Years: Warhol's Factory 1965–67』のノンフィクションテキストの執筆、編集を行なっている。また日本語でも翻訳のある『ブックストア』は名著だと思う)。
「毎日、アーティストが制作において、どう決定を下すのか見てたんだ。アンディは、遠慮なく、オープンに周りの人に喋りかけた。色はこれでいいかな? 牛の頭の大きさは、これでいい? もうちょっと小さい方がいいかな? 彼の周りに出来た渦のエネルギーを彼は作品に使ってたんだ」
ショアはウォーホルが作品をつくるにあたって、シリーズ性、反復性を重視していることから影響を受けたと言う。このことは、後にも述べたいがショアが決定的にアンリ・カルティエ=ブレッソン流の「決定的瞬間」という写真生成術を嫌うこととも深く関係していると思われる。そして追記しておきたいのだが、アーティストであり、写真家のジョン・コプランズの本『Serial imagery』(これは1968年にパサデナ美術館で行われた連続や反復をテーマにした展覧会に合わせて出版された)にすごく影響されたという告白だ。
一見するとショアが撮ったファクトリー時代の写真集『The Velvet Years: Warhol's Factory 1965–67』は、モノクロのドキュメンタリー風の写真である。しかし、この写真の制作過程に、ショアの変成の揺籃が含まれているのである。
彼がウォーホルから学んだのはもちろん、「真実」に迫り記録する写真術ではなく、無意味に見えるスナップが差異や反復を伴うと「別のものとなる」ということだっただろう。そしてそのウォーホルによる初期衝動、引き続いてのC/O Berlinでのレクチャーでも語られた、コンセプチュアルフォトからのインスパイア。それらがトリガーとなり、明確な写真変成の作品として生まれたのが1971年のメトロポリタン美術館での初個展(生きている写真家の展覧会としては2人め。ショアは弱冠23歳!)「Photographs by Stephen Shore」である (同時にホリー ソロモンのスペースでも、印刷物やファウンドフォトを使ったショー「All the Meat You Can Eat」を同時に開催)。
全てモノクロ。今見ると服を着た人を同じポーズで下着で撮ったり、ベッドから寝ている人が起き上がっていくシリーズフォトなど、実に興味深いトライアルである。
『American Surfaces』でショアが試みたこと──写真のポップ的な革命
そしてわれわれは、いよいよ『American Surfaces』を語らなければならない。これは、1972年のニューヨークから始まる「ロードトリップ」フォトで、ショアはルート66やディープサウス、オクラホマ、南西部へと移動している。1973年にニューヨークの写真ギャラリー、ライト・ギャラリーで展示されたが、200枚以上の全ての写真は、ポストカードと同サイズで、ギャラリーの壁三面に直接貼られることとなった。写真はカメラ屋で大衆のためにプリントするワンナワーフォトを使用し、ニュージャージーのコダックのラボで焼かれ、グロッシーで意図的に大量消費の装いをまとっていた。1999年にドイツで行われた『American Surfaces』展に合わせてSchirmer/Mosel版が出版されるまで、20年以上、まとめて見ることができなかった作品群である。
批評家でキュレーターのボブ・ニカスは2008年のPhaidon Press版にテキストを寄せているが、書き出しから「誰がこれらの写真を撮ったのか」「カメラの後ろにいるやつは誰だ?」と挑発するように書いている。つまりこれらの写真がきわめて「アノニマス」を装っていることを指摘しているのである。
ロバート・フランクたちロードムービー的な写真家たちの写真は、『ライフ』や『タイム』が報道してきた「真実」(と言っても操作されているのだが)のイメージに対しての、オルタナティブな視座からの逆襲であった。
しかし、ショアのロードトリップの写真はその同一線上にもない。
ショアは、全てのもの、全ての人を撮ること。わたしのライフをレコーディングをすること、と『American Surfaces』についてコメントしているが、彼においてはフランクのような表現主体すら、すでに捨てられている。その変成の洗礼は、ウォーホル・ファクトリーによるものだろう。
ショアは『American Surfaces』の写真をポストカードにして、のちの旅の途中、色んな街のツーリストポストカードラックの中に、自分の「写真」を入れて回ったというが、まさにその姿勢は「Warhorian(ウォーホリアン)」の面目躍如ではないだろうか!
パット・ハケットによる60年代ウォーホル回顧本『ポッピズム』(1980年)には、ウォーホルの変成術が語られている。
「一度ポップを“つかん”でしまえば、標識ひとつも以前と同じようには見えなくなる。そしていったんポップ的な発想をしはじめると、アメリカも以前とは違うふうに思えてくるのだ」
「まわりの人たちはまだ過去形で、つまり過去を参照しながら考えているためにそのことに気がつかないのだ。だけど必要なのは自分が未来に足を踏み入れていると知ることなので、その自覚さえあれば未来に生きられるというわけだった。謎は消えてしまったけれど、驚きはいまはじまったばかりだった」
重要なのはモチーフではない。ある意味、何でもよいのだ。なぜならば、サーフェイスは等価だから。それが「ポップ」というシフト。退屈で、どこにでもあるようなものを変成させる術なのだ。それをウォーホルは「ポップ的発想」と呼んだのだ。
『ポッピズム』におけるウォーホルの発言は、まさにショアの写真そのものを彷彿とさせる。
写真は主体の表現ではない。写真は、消費されるパッケージや絵葉書と何ら変わらない。そして写真家だって、何らこの世界に溢れた商品と変わらない。
ショアが『American Surfaces』でやったことを、ただ「ロードトリップ」フォトと語ることは明らかに片手落ちだ。何より重要なことは、「写真がメディアでありモノであること」を示す写真として提出されていることだ。きわめて自己言及的な意識がそこにある。写真という大量消費時代のメディアであり、商品であることを逆手に取ってアートへとシフトさせること。それはポップアートが行なった価値革命だった。ショアは、そのことを自覚的に選んだ最初の「フォトアーティスト」であった。
『Uncommon Places』における視覚認識のメタ写真
さて、もう1つショアの変成術について検討したい。それは『American Surfaces』のあとショアが選んだ道、その成果である写真集『Uncommon Places』に顕著に現れている。1973年から1981年にかけて大型ビューカメラによって撮影を行なったものである。
ショアはポップアーティストやコンセプチュアルアーティストの道を選択せず、ウジェーヌ・アジェのようにヴューカメラを担ぎ、再度アメリカの風景に向かったのである。この経験は、ショア本人もよくコメントするように「細部」へのディープな旅、と考えられるし、批評家たちもそれを受けて、ロードトリップフォトと単純に位置づけがちだ。
『American Surfaces』のプリントはスナップショットサイズの大きさであったが、『Uncommon Places』の写真の全ては8×10のフィルムで撮られていて、巨大に引き伸ばせる。そこにはさらなる意識的な展開がある。
「よく撮すこと」「全体以上に細部が発言すること」。それは確かに「HOW TO SEE」というエクササイズの重視と捉えられる。
写真は普通なら、どんな被写体をどう捉えて撮っているかというものだ。何が写っているか、である。われわれは、写真とはそういうものだという視覚的な習慣に囚われている。
しかし、『Uncommon Places』でショアが問題にしたのは、「視覚認識のメタな次元」を問題にすること、すなわち、「どんなふうにわれわれは見ているのか?」を意識的に写真化することであった。
『Uncommon Places』に収められたのは49枚の写真。それは、写真とメタ写真の二重性のサンプルとして提示されている。セレクトされた写真は、極論すれば、壁紙にするに使われているような典型的な写真や、テレビ番組などの背景に使われている写真などを批評的に意識したものだとショアも言う。
「視ること」と「撮ること」
1982年からバードカレッジで教鞭をとるようになったショアは、「見ること」と「写真」の問題をさらに推し進める。その成果が、大学での教科書的なものとしてつくられた『The Nature of Photographs (邦題『写真の本質』)』である。1988年にまとめられたこの本は、1つには、先にも指摘したカルティエ=ブレッソン流の「決定的瞬間」への異議である。ショアの口癖はこうだ。
I don't want to do, Decisive moment!
彼はクライマックスとクライマックスの「間」にこそ注目する。切れ目のない日常生活における自分が会った全ての人、全ての食事、全てのトイレ、全てのベッド、全てのストリート。彼は「stop」よりも「still」のほうが、まだましだと言う。
見えていると思っているものは見えていない。気づくこと。そして表面でしかない世界の「深さ」を読み取ること。
『The Nature of Photographs』の本の中で彼は、写真の特性を3つのレベルに分類する。
「物理レベル」「描写レベル」「メンタルレベル」と章分けされているのである。
彼が「見ること」と「撮ること」の相関についてどう考えているのか。2009年に、ロンドンでのインタビュー(G/P galleryの機関誌『invisibleman/magazine』に掲載)をここに再録しておきたい。
G まずあなたがバードカレッジで教えている内容についての質問です。ジョン・シャウカフスキーの『フォトグラファーズ・アイ』という本やその他の授業方法をベースに教壇に立ちはじめたそうですが、その後どのようにあなた自身の教え方を展開していったのですか?
SS この『The Nature of Photographs 』という本は「フォトグラフィック・シーイング(写真を通した物の見方)」という授業から生まれました。わたしは長年シャウカフスキーの本を教材として使っていたのですが、あるときシャウカフスキーのそれとは違った自分の方法で教えられないかと考えました。わたしはこの本を書くことで、写真の持つ力とは何か、という問いに触れようとしました。何が写真の見た目をよくするとか損ねるとかではなくて、ストレート・フォトの本質について書きたかった。
それは3つの段階から成り立っていて、まず「物質としての写真」。例えばこのポストカードはロサンジェルスの風景ではなく、1枚の紙であるということ。わたしは人々に写真にまつわる事実と錯覚について気がついてほしかった。そして、その錯覚をより写真の撮り方に関連づけて考えたいと思ったのです。写真家として、わたしは自分の写真に対していくつもの選択や判断を下しますが、これは、例えばペインティングにおけるキャンバスに絵の具を足していくというアプローチとは全く違ったもので、写真家は世界を見渡して、その選別の連続によって写真を用いた「描写的」な写真のレベルが存在します。そして、写真は写真家の手を離れ他人の視点から見られた時にもう一つの1つの段階、「写真の精神的なレベル」に行き着くのです。
つまり写真における段階とは、写真という物質、その物質としての写真が与える錯覚、そして喚起される心的イメージの3段階を指します。そしてどのような心的イメージを写真が喚起するのかをコントロールするのが写真家なのです。
G 授業ではおっしゃっている写真の3つの段階を、この本に載っている写真家の作品を見せながら教えているんですか?
SS この本に載っている作家の作品を使うこともときにはありますが、大抵は生徒たちの作品を使います。彼らは1週間に1回は作品をつくりますから、その中から参考になるような作品を選んでいます。実際、クラスの誰かが作った作品以外の写真を見せる機会は数えるほどしかありません。
学生たちが写真の喚起する心的イメージについて、どうすればどんな印象を与える写真が撮れるのかを考えられるほど写真を理解していなくても、どんな写真にも画面や焦点やコーナーはあるし、写真は全て平面的で、「ある瞬間」に撮られたものなのであって、この写真としてのクオリティは生徒の写真の中にだって十分あるのです。悪い写真なんてないんですよ。しかし、生徒たちはこういった写真の要素を十分引き出せる程には写真を理解していない場合がある。ところが、経験を積んだ写真家はこれらの要素を十分理解した上で、思いっきり作品の上に引き出すことができる。
G では、あなたが授業で教えていることは、写真における特定の手法やメソッドと言うよりは、ある種のエクササイズと考えていいのでしょうか?
SS そう、目に見えるものに対するエクササイズみたいなことですね。普段から見ているのと違ったものも意識させること。普段から何となく、直感的、無意識のうちにやっていることに、改めて気づかせることがわたしの狙いです。バードカレッジの学生は1年目を寄宿舎で過ごします。毎日、彼らは寄宿舎から食堂に向かって行ったり来たりするわけですが、わたしは彼らにその食堂までの道のりで写真を撮るという課題を与えるんです。彼らにとって非常に身近なものにどんな緊張感を見出すことができるか、普段通りすぎるものにどのくらい注意を払えるかを考えることで、まず写真を撮ることが、彼らの中であまり大げさにならないようにします。
心的イメージの話に戻りますが、カメラも写真も機械なんです。写真はおかしなことに最も機械的で、かつアーティスティックなメディウムで、何よりも簡単なメディウムです。そしてそう言ったことを全て踏まえた上で、写真がすばらしいのは、その技術を習得した者は、写真を通して自分の感じていることを伝達することができるところにある。その手軽さ、そのシンプルさ、そしてその機械としての性質全てによって心の微かな変化が写真から伝わるのです。
G コンテンポラリー・アートとしての写真についてはどう思われますか?
SS わたしはとても満足ですよ。写真がアートかどうかを人々が話題にする時代が来るまで、非常に長い年月がかかりました。1980年代に一度、シンディー・シャーマン、リチャード・プリンス、そしてジェフ・ウォールといった写真家たちがアート界で注目を集めたときがありました。このとき、アートに携わっている人たちが写真について興味を持ち始め、そして写真に分類を設けるようになりました。その頃は、シャーマン、プリンス、ウォールと、わたしのようなその前の世代の写真家たちの間に、そしてポストモダンを経た現在はイラストレーションとしての写真と、その他全ての写真と言う棲み分けになっているのではないかと思います。わたしは、アートが非常に包括的で、また写真・アートそれぞれにおいて非常に多くのアプローチが存在するということはすごくいいことだと思います。
G では、最後に。G/P galleryでの個展「プリント・オン・デマンド」で見せているiPhotoブックを使った作品ですが、あのシリーズではたくさんの異なるアプローチを試みていますよね。しかし、写真として見れば1つひとつクオリティを持ったものです。その全てを総称して、あなたの作品はアートとして提示しているんですね?
SS わたしは全て同じに見えなくてはいけないとか、同じスタイルを守らなくてはいけないと思わなくていい作品をつくりたいと思っていました。例えば、それに5年間も費やしたいとは思わない、けれど1日だったらすごく熱心に取り組めるような写真のアイディアがあったとき、この本のシリーズでわたしは色々なアイディアを試みることができたんです。
学生に接するときも、わたしは彼らの中にアーティストとしての声を見つけようと心がけています。もしわたしがこの学生だったら、次にすべきことは何か、次のステップは何かと言うことを考えるんです。そうやって長年教師を続けているうちに、あるときふとわたしの中にわたしの学生たち1人ひとりが持っている、スティーブン・ショアのそれとは違った様々な写真のアイディアを持っていることに気がつきました。写真を教える立場に立つということは、わたし自身の写真に対する考え方にも影響を及ぼしていたようです。
絶えざる変化の中にダイブする
ショアほど誠実に「見ること」を考え続けている写真家はいない。しかし、それは哲学者や道を極めようとするタイプのアーティストとは随分異なっている。リン・ティルマンは、ショアとの対話の中で「constant change」というコトバを使ったことがある。
「絶えざる変化」
なかなか的確ではないだろうか。
テクノロジーやマテリアル、都市や時代、生活の表面は絶えざる変化にある。その日常物の1つである写真も絶えざる変化の中にある。
ショアはラディカルと思えるほどに、そしてナチュラルと思えるほどに、そこにダイブしていくのである。
僕は2009年の9月に、日本での初めてのショアの個展「プリント・オン・デマンド」をG/P galleryで行なった。それは通常のプリントセールスのためのよくあるような作品展ではなく、彼が2003年から始めていたiPhoneのブックサービスを使ったオートマチックな「写真集」の展覧会だった。ニューヨークで開催されていたのを観て、ショアに相談したのだ。所属ギャラリーも、そんなものは売れないだろうと思ったのか、簡単に承諾してくれた。
僕も1冊購入して、写真集ごとフレームに入れて、今も家に飾っている。プリントなんかより、はるかにショアっぽい。
ショアは今や、Instagramで「毎日」写真を世界中に向けて公開している。誰よりも精力的で、人気ブロガーぐらい当たり前に現代的だ。それは写真家の余技でも、趣味でも、アート作品にしてやろうという戦略的な下心として行われているのでは全くない。
絶えざる変化にあるメディアとしての写真。
そのありようこそが、最もクリティカルであることを、確信犯的に知っている写真家。
それがスティーブン・ショアなのである。