江戸幕府の勘定奉行(かんじょうぶぎょう)と勘定所は、まことに面白い役人であり役所である。「勘定」というと、お金の計算や代金の支払いを思い浮かべてしまう。しかし、江戸時代の勘定奉行と勘定所は、お金の計算も重要な職務だったが、財政、農政、交通、司法など、江戸幕府の重要な政治機能の多くを担っていた。さらに、寺社奉行・町奉行とともに三奉行(さんぶぎょう)(寺社奉行・町奉行・勘定奉行を総称)の一員として、江戸幕府の重要な政治案件の意思決定に関わっていた。
財政は、江戸幕府に限られるわけではないが、国家や政府のもっとも重要な主題である。農政は、江戸幕府の四〇〇万石(ごく)をこえる幕府領(「御料(ごりょう)」と表記し「天領(てんりょう)」と俗称する)を支配し、財政収入の根幹である年貢の徴収を担った。それにとどまらず、生産・流通・金融に対するさまざまな経済政策を立案、実施した。現代日本の中央省庁で、財務省(旧大蔵省)こそが役所中の役所の位置にあることを念頭におくと、勘定奉行と勘定所の重要性がわかりやすい。
交通では、道中奉行を兼任し、東海道など五街道を含む主要な街道と宿駅、および助郷(すけごう)(宿駅周辺の村むらが宿駅常備の人馬では不足する人と馬を提供し、陸上交通を支えた制度)を管理し、陸上交通体系を維持していた。また、江戸時代の最高裁判所ともいうべき評定所のメンバーであるだけではなく、勘定所の役人が評定所それ自体と寺社奉行の裁判を実質的に支え、江戸幕府の司法の主要な部分を担っていた。これも現代日本の中央省庁でいえば、国土交通省(旧運輸省)と法務省の機能に相当している。このように、勘定奉行と勘定所は江戸幕府のもっとも重要な役人であり役所だった。
ところが、勘定奉行に就任した幕臣の経歴をみると、歴々たる旗本とはいえない者もいる。俗に言う「どこの馬の骨ともわからない」というほどではないものの、厳しく年貢を取り立て「胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの」と放言したといわれる勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)は、当時から伊豆三島辺の百姓の出身と噂された(後述するようにこれは誤伝)。
また、しばしば本文に登場する川路聖謨(かわじとしあきら)は、幕臣でもなかった家の出自ながら勘定奉行になった。御目見得(おめみえ)以下の御家人(ごけにん)身分から勘定所の内部で昇進し、勘定奉行になった者もいる。勘定所の内部昇進で奉行にまでのぼりつめた、いわゆるノンキャリアの「叩き上げ」が一〇パーセントもいる。これは、町奉行所など歴々たる旗本だけが奉行に就任するキャリアコースの役所などではあり得ない、勘定所の特異な仕組みがあったからである。そして、そのような出自の奉行が個性的な役人として活躍するのが、勘定奉行と勘定所の実に興味深い所である。
勘定奉行と勘定所の歴史をみると、江戸幕府を中心とした政治や経済の歴史の大きな流れ、および江戸幕府の役人組織の特色などをみることもできる。冒頭の言にもどるが、勘定奉行と勘定所はまことに面白い。
家格でなく実力で、奉行までのぼりつめる昇進システムがあった勘定所。年貢増徴策、新財源探し、積極派vs.緊縮派、禁断の貨幣改鋳……江戸幕府を支えた実力者の手腕とは?2月刊『勘定奉行の江戸時代』の「はじめに」を公開します。