酒井駒子が描く子どもたちの絵には、いつも〈動き〉がひそんでいるように見える。子どもたちは、たとえば、スプーンを持ち上げてその先からしたたるものに見入ったり、なわとびで遊んでいたり、小鳥をかまったり、コップの水を飲んだりしている。あるいは、ふと腕を曲げたり、視線より少し上にある木馬を見つめたりしている。
絵として切り取られるのは、そうした一瞬なのだ。だから、といえばいいか、それなのに、というほうがふさわしいか、少し迷う。けれど、いずれにせよ、切り取られたこの一瞬の、直後にはどうなるのか、なにが起きるのだろうと、そんな想像へぐっと引っぱる強烈な力がそこにはある。〈次の動き〉を宿していながら、しかも画面には独特の落ち着きがある。不穏なもの、不安定な感じを、安定的に表出する力があるということだと思う。
そんな力が、絵のみならず言葉の表現においても発揮されたすてきな一冊が刊行される。画文集『森のノート』だ。絵と言葉の、近すぎず、遠すぎることもない絶妙な関係。絵と言葉が並ぶ一冊の中では、絵が単に言葉の説明になるだけではいけないし、その逆でもいけない。その場合、片方の表現が思いがけないほど縮まってしまうからだ。酒井駒子にはこれまでにすぐれた絵本の仕事がいくつもある。そんな作者による画文集だから、絵と言葉の関係については、妥協もなければ凡庸なところもない。心地よい緊張感のある世界が出現している。
一瞬を、絵として定着できる人が、言葉を書くとこうなるのか、と思える文章の数々。日常の中の、静かな発見や驚き、心を動かされる出来事などが、短めの文章に綴られる。山の家での暮らしがよく出てくる。東京の家と山の家を行き来する。自然環境が豊かな場所での、生と死を身近に知る生活。生きている、という実感が、そんな直接的な言葉は一度も使われることなく表現されている。たとえば、雪が止んだ後、雪靴を履いて外へ出たときのこと。水のある場所で目にする、さまざまな生き物の足跡。〈鹿や狐や猪や鳥や。皆、水を飲みにきたのか。たくさんの動物の足跡の中に、自分の雪靴の跡。〉そんなふうに人間は生きているのだ、という実感が、言葉による視覚的なイメージだけで、はっきりと浮かび上がる。
動物の死についてもたびたび書かれる。たとえば、次のように。〈ふと脇の斜面を見ると、茶色いものが倒れている。近くにいくと鹿だった。目はぽっかりと黒い穴になっている。腹は裂かれて、真っ赤な洞穴のように見える。角の長さから、まだ若い牡鹿だと思う。冬を越せなかった生き物の白骨を、何体か目にする。〉生を、静かに照らし出すような死が、この本のあちらこちらで点滅し、それが子どもたちを描いた絵の数々と響き合っている。聴覚、嗅覚などによって捉えられた事柄もこまやかに拾い出され、言葉にされているので、あざやかな印象が残る。
「りんご」という一編が好きだ。リュックサックを背負って山を降り、市場で久し振りの買い物。〈トマト、ジャガイモ、ピーマンにクリームパンにアンパンを買う。迷ってから、もぎたて! と書かれたりんごも買う。〉と、食料調達の楽しいひととき。食べ物の見た目についての具体的な描写はないのに、おいしそうだ。ところが、この一編の末尾はこうだ。〈やっと家に着いてりんごを齧るとおかしな味だった。〉甘くておいしかった、ではない。ここはこの通り、「おかしな味」でなければいけない、と感じさせる文章。それでこそいきいきと迫ってくるのだ、と思うのはなぜだろう。ひとこと、ひとことが大切に扱われ、綴られている。絵と言葉、その共鳴が心にひろがり、くっきりと刻まれる。気がつくと知らない場所に立っていた、そんな気もちになってくる。
たいへんお待たせしました。いよいよ発売間近となった酒井駒子さんの画文集『森のノート』。詩人の蜂飼耳さんにその魅力についてお書きいただいた書評をPR誌『ちくま』8月号より転載します。