「陸軍赤化論」というものがある。これを世に知らしめたのは近衛文麿である。敗戦直前、戦争遂行の可否に悩んでいた昭和天皇に近衛が奏上して曰く、この戦争は「国体の衣を着けたる共産主義者」の陰謀である、と。そしてこれに同調したのが共産主義者の「革新官僚」だったと。「アカの革新官僚」と指差されていた一人に岸信介がいた。近衛の眉唾な陰謀論はともかくとして、実際、岸は戦後に巣鴨から出獄し公職追放が解除された当初社会党入りを画策していた。彼は国家社会主義者だったわけである。
「白猫であれ黒猫であれ、ネズミを捕るのが良い猫である」と言い切ったのは鄧小平だ。文革であれだけ走資派と指差され政治生命を何度も絶たれたにもかかわらず、鄧小平は共産主義のタテマエとホンネを巧妙に使い分け、資本主義中国の躍進の基礎を固めた。
鄧小平に教えを乞うまでもない。民主主義の社会で、その時々のヘゲモニーを握るのは思想ではなく、ネズミをどれだけ咥えてくるのかだ。岸信介は六〇年安保闘争の「悪役」だが、本書でも取り上げられているとおり、同時に国民皆保険や国民年金をつくりあげたことでも知られる。
安倍晋三は岸の直系を自負している。金融緩和と財政出動による「アベノミクス」はむしろ理論的には左派が得意とする政策であるはずだ。さらに現在、同一労働同一賃金の実現、最低賃金の(時給)千円への引き上げも表明している。最低時給の引き上げは、反原発・反安保法制、そして反安倍を旗印にかかげて国会前に集まった人々の一派「AEQUITAS(エキタス)」がデモなどで精力的にアピールを繰り広げていた。またも左派は先にやられた。なるほど「社会主義者晋三」(本書二四一頁)なわけである。
日本の左派は名もなき庶民のための白猫黒猫論を理解しえない。浅羽通明氏が本書でも指摘しているとおり、反原発や反安保法制という政治テーマは、有権者の投票行動の中での重みづけが著しく低い。「経済優先」の掛け声を前に思想は白猫黒猫論にいともたやすく敗北する。
一方で「民主主義を守れ」と国会前の集会は叫ぶ。だが、もともと民主主義は様々な意味で必ずしも万能ではない。わざわざ「議会制」民主主義となっているのには訳がある。直接民主制はそもそもギリシアの昔にすでに破綻した。だからそこではあえて民意とズレが生ずることによってショックアブソーバーとなる仕掛けがめぐらされている。「歴史の終わり」(F・フクヤマ)と目されてはいても、それを十全に機能させるには議会制民主主義のいわば「顕教」(浅羽通明『右翼と左翼』)のカラクリを解かねばならないのだ。
赤い安倍晋三はそれをおそらく理解している。わかっていないのは国会前で負けを承知の戦いを続けてきた「敗北主義」の反安保法制のデモの一群のほうである。そうした左派の心情倫理に感じる一種の居たたまれなさを昨年夏の反安保法制のデモに即してまとめたのが、本書で浅羽氏に取り上げられている「国会議事堂前の「敗北主義」」と「優しい左派リベラルのための「憲法改正」のすすめ――心情倫理を抱きしめて」である。
本書においても、国会前に集まった十数万人の「反原発」「反安保法制」の左派リベラルの地に足のつかなさは揶揄され、筆者は徹頭徹尾挑発的である。だが、むしろその批判に耳を傾けなければならないのは、著者の言うように敗北を「勝利宣言」にすり替える人達だろう。「眼を覚ませ」ということだ。
かつて浅羽氏は自身を右派でも左派でもないと規定し「既存の諸思想それぞれの固有性を、可能な限り湊合していった先に、それらのどれでもありどれでもない未来の正統思想(オーソドキシー)を構築していく過程を生き抜く」と宣言した。「左翼とは何かを探し求めつつあるものだけが左翼なのである」(吉本隆明)と考える風変りな左派を自認する私と浅羽氏が共鳴するのはそこにおいてである。