この度、ちくまプリマー新書で、『友だち幻想』という本を上梓させていただいた。
この本を書こうとした動機には、大学で教鞭をとっている者としてのある感触が大きく働いている。学生たちと直接話をしたり、あるいは授業の中で節目ごとに書いてもらう「コミュニケーション・カード」などを読んでいると、人と人の関係のなかで、いろいろ思い悩んだり、傷ついたりしている若い人たちの生の声が聞き取れるような気がして、そうした彼らの思いを何とか形にできないかと考えたのが第一の動機である。さらにもう一歩踏み込んだ動機としては、とりわけ親しい人びととの関係のあり方に戸惑いを感じている彼ら、彼女らに、対人関係を少しでも前向きに捉え直せるような実践的な見取り図の原案のようなものを描きたかったという思いがあった。
現代の若者の心性をめぐっては、位相を異にする二つの仮説的見解が世間に流布している。一つは、「このごろの若者は傷つきやすい、精神的にもろい」といういわば〈若者脆弱説〉である。もう一つは、「このごろの若者は、人間の心の痛みや悲しみに驚くほど鈍感だ」という〈若者鈍感説〉である。それぞれが繊細さと鈍さという、一見対立してみえる二つの要素を核とする仮説なのだが、この両方の仮説が組み合わさると、「自分が傷つくことにはとりわけ敏感だが、周りの人間を傷つけたり、痛みを与えたりすることには驚くほど鈍感」という、ほとんど救いようがない若者像が出来上がってしまう。さらにこうした複合仮説は、別の表現で言い換えられることも多い。それは、「このごろの若者は、昔に比べて、他の人に対する関係構築能力や共感能力が著しく低下している」という〈コミュニケーション能力低下説〉である。
コミュニケーション能力が昔より劣っている若者が増加しているという仮説に対しては、以前から、私は懐疑的なまなざしを向けていた。むしろ現代社会に見られる対人関係ネットワークの多様化、重層化といった社会的条件の変化が、個人の持つ対人能力への期待値を高めた結果、若者を中心にコミュニケーション能力への過重負担を生じさせているのではないか、対人能力への期待値があまりにも高すぎるために、昔よりコミュニケーション能力が落ちているという仮像の認識が生じているのではないかと私は考えたのである。
〈コミュニケーション能力低下説〉と対比させながら、この〈コミュニケーション能力過重負担説〉を、高等学校での「出前授業」や大学に入りたての学生への講義で語ってみた。すると彼らは、一様に極めて高い共感的態度を示してくれたのだ。
「いままで自分たちは、マスコミなどを通じて、人との付き合い方が下手だ、コミュニケーション能力が低いと大人たちに批判されてきた。でも昔に比べて、より高度なコミュニケーション能力が求められるといった時代の条件を見なければならないという今日の話を聞いて、ホッと肩の荷が下りた気がした。自分たちがすべて悪いんじゃない、そんなに自信を無くさなくたっていいんだと思い直すことができた」といった内容の感想やコメントが頻出したのである。そこに見られるのは、「お前たちはダメだ」と上の世代からの有形無形の圧力に押しつぶされそうになる若者たちの哀しい悲鳴のようなものだった。
彼らより上の世代の人間として、こうした声はぜひ聞き取らなければならないと私は常日頃感じている。若者たちに向かって批判的に何かを言い放っているだけではだめだ、「生きる」ということそのものに対するもっと積極的なビジョンや、幸福をデザインするためのアイデアを提示することこそが、上の世代の人間たちが果たすべき役割なのではないか。
この本は、一人ひとりが生活の現場で人間関係をとらえなおし、今より少しでもマシな関係の構築を模索するために役立つ〈臨床の社会学〉へ向けた、私なりの一歩なのである。