「自由と民主主義が壊れていく 右傾化(強調は引用者、書籍では傍点、以下同)はいかにして進んできたのか。 その歴史的ダイナミズムをたどる。」(中野晃一『右傾化する日本政治』岩波新書、二〇一五年、帯文)
「「右傾化」の淵源はどこなのか? 「日本会議」とは何なのか?」(菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、帯文)
「政治の右傾化、代表軸必要(安保って? 憲法って?)」(『朝日新聞』二〇一六年六月一七日付朝刊)
「自民党 若手「ハト派」が勉強会 過剰な右傾化憂慮」(『毎日新聞』二〇一五年五月二日付朝刊)
「若者の右傾化は本当か 選挙結果が示す左右バランス」(『読売新聞』二〇一五年一月一九日付朝刊)
「日本の右傾化は本当か」(『日本経済新聞』二〇一四年三月三〇日付朝刊、「風見鶏」欄)
「参院選後の改憲目指す 日本会議と安倍首相 日本の右傾化進める“陰の組織”」(『週刊朝日』二〇一六年六月二四日号)――――
「右傾化」や「極右」や「右翼」など、遠い外国の話か、あるいは時たま見かける街宣車の類に限られた話かと思っていたら、いつのまにかわれわれが暮らすいまの日本社会そのものをめぐって取りざたされる語となっていた、というのが現状と言えようか。
それは、「安倍政権」「日本会議」「憲法改正」「安保法制」「宗教」「愛国心」「靖国参拝」「教育」「家族」「若者」「慰安婦問題」「ネトウヨ」「ヘイトスピーチ」などのトピックとしばしば結びつけられながら、さまざまな報道や書籍、ウェブ情報のなかで論じられてきている。
だがそのなかには、ただ対象を批判したいがためにそうした言葉を用いてレッテル張りをし、それでよしとするものもあれば、限られたデータや居直りのみに立脚して「右傾化じゃない、ふつうのことだ」などと火消しに躍起になっているような例もままある。それでは不毛だ。
二〇一六年には、国内最大の右派・保守運動と目される「日本会議」についての書籍が相次いで刊行され、その存在が社会的に顕在化した。その意義自体は大きい。だが、「日本の右傾化」の焦点を「日本会議」にのみ合わせただけでは、取りこぼされるものも大きいだろう。現実に進行中の事態は、もっと複雑で、多面的である。
多面的な対象に迫るには、多角的に検討すればよい。事態はもはや、特定のメディアや個人などが独力で捉えきれるものではないのではないか。「日本の右傾化」と大きく括られているそれを、いったん限られたテーマに分解・細分化する。それぞれの領域の専門家が自身のフィールドについて、信頼できるデータと資料を駆使しながら検証し、それを幾重にも重ね合わせる。その作業が必要であり、本書が目指すのはそれである。
よって、本書ではこの「はじめに」において、「右傾化」の定義は行わない。各章の検討の結果、特定の意味の「右傾化」がその領域では起きているかもしれないし、起きていないかもしれない。あるいは「右傾化」と括られていた問題の実態は、もっと別の深刻な問題であることが明らかになるのかもしれない。別々のテーマを論じていたはずなのに同じ事項や団体・人物が出てくることもあれば、時には同じ事象に対して異なる見解や見方がぶつかる局面もあるだろう。それら各章の検討結果を重ね合わせた際に、どのような現代日本社会の像が結ばれる、何が看過できない問題として浮かび上がってくるのか。それを提示したいし、そしてつかんでもらいたいと思う。
全体は、「壊れる社会」「政治と市民」「国家と教育」「家族と女性」「言論と報道」「蠢動する宗教」の六部・二一章からなる。各章執筆者には、安倍政権なり日本社会なり右派勢力を批判してほしいとは依頼していない。しかし、中立や冷笑を気取るのでもない。各人の問題意識はそれぞれ明白であるはずだ。どの部・どの章から読み始めてもらってもかまわない。どれも、この日本社会の直面する諸問題をつかむための入口となっている。なお、各章のなかに「(→第〇章)」とあるのは、その章・部分と関連する内容が他章で論じられている場合のリンク先を示している。文中の肩書き等は当時のもの、敬称は基本的に略としたが、著者に委ねた部分もある。
巻末には、編者による「「日本の右傾化」を考えるためのブックガイド」と「「日本の右傾化」関連年表」を附した。
前者は、本書各章の議論についての理解を深めるのに資すると思われる、比較的手に取りやすい書籍を、近年のものを中心に選んでいる。
後者は、本書各章に出てくるポイントとなる出来事を中心に、日本の「右傾化」に関連すると思われる事項を抽出して記載した。紙幅の都合から一九八九(平成元)年からとしたが、結果的にそれは「平成史」のある一面を表していると言えるかもしれない。参照してほしい。
いまこの日本社会で、何が起き、どこまで進んでいるのか――。
協働し、総力を挙げて、この問いに挑戦したい。