ちくま学芸文庫

『凍泉堂詩話』から『頼山陽とその時代』へ
中村真一郎『頼山陽とその時代』解説

作家・中村真一郎の代表的評伝『頼山陽とその時代』がこのほどちくま学芸文庫入りしました。著者が精神的危機を克服する中で読んだ厖大な漢詩文から生まれた大作です。富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(東洋文庫・平凡社)とともに、江戸漢詩の再評価にも寄与しました。この作品の生成過程と魅力を日本近世文学研究者の揖斐高氏(成蹊大学名誉教授)が解説します。

 幕末から明治維新を経て太平洋戦争に至るまでの間、頼山陽は『日本外史』の著者として誰もが知る「文豪」の一人だった。『日本外史』の完成後、余勢を駆って山陽は『通議』という経世論をまとめた。その中で山陽は、歴史には人知を越えた「勢」というものがあり、「勢」によって変化する歴史的局面の一瞬一瞬の力学を洞察し、その力学的な構造である「機」をコントロールすることができた者だけが、政治の「権」を掌握・維持することができるとする歴史哲学を開陳した。平安時代中期から江戸時代に至る武家の通史である『日本外史』は、こうしたダイナミックな歴史哲学を根底として著述された史書であるとともに、歴史の舞台に登場する武将たちの心情や一瞬の表情を平易闊達な漢文体で描き出そうとした勝れた文学作品でもあった。そして、何よりも尊皇の大義を標榜する大義名分論という歴史観を、史実や人物評価の柱とした『日本外史』は、幕末・維新期の激動に身を投じ、倒幕によって天皇親政の世を実現しようとするに至った志士たちを鼓舞する書物として広く読まれ、大きな影響力を発揮することになった。          
 しかし、明治維新以来の絶対主義的な政治体制が崩壊した太平洋戦争後には、山陽が奉じた大義名分を重んずる歴史観は、民主主義を抑圧し、近代日本の歴史を誤らせたものとして否定された。さらには漢文読解力の急激な低下も相俟って、『日本外史』はほとんどまともには読まれることのない、名のみ知られる過去の書物になった。そして、その著者山陽もかつての「文豪」の地位から滑り落ちた。
 すでに過去の人物として葬り去られようとしていた頼山陽の評伝に、戦後的な近代を体現すると見なされていたフランス文学者・小説家であった中村真一郎が、なぜ取り組むことになったのか。この組合せは一見謎めいて見える。あるいは、西欧近代文学の源流に古典主義文学としてのラテン文学があったとされるように、日本近代文学の源流の一つに古典主義文学としての漢詩・漢文があるのではないかという、比較文学的な探究心や好奇心が中村を動かしたのかもしれないが、しかしそれだけの理由で、これだけ長大な評伝『頼山陽とその時代』が書かれるはずはない。
 これについては、中村は本書の「まえがき」に記しているほか、さまざまなところで、次のようなプライベートな事情が大きく関わっていたことを明かしている。最初の妻の自殺がきっかけとなって重い神経症に陥った41歳の中村は、病症からの回復のため、医者の勧めもあって、散歩の合間合間に、病んだ神経を刺激することの少ない、江戸期の漢詩文集や漢詩人の伝記を読むのを日課としたというのである。中村はそれらの書物を病症からの回復期10年ほどの間に3000巻余りも読んだという。ここに本書の出発点があった。
 この期間に中村が蒐集し、日課として閲読した江戸期の漢詩文集は、中村没後、国文学研究資料館に寄贈された。現在は目録も作成され、閲覧に供されている。その寄贈書群の中に、目録では『江戸漢詩に関する創作ノート』と仮題される、中村自筆の分厚い手控え帳一冊がある。ちなみに、この手控え帳の中扉には中村の筆跡で「凍泉堂詩話のための覚書」と記されており、内容的には、書名としてはこちらの方が適切かと思われるので、ここでは『凍泉堂詩話のための覚書』という書名を用いることにし、『覚書』と略称することにする。なお、「凍泉堂」とは中村の用いた号の一つである。この『凍泉堂詩話のための覚書』は、江戸時代の漢詩人について「年代順に一頁に一人、二〇〇頁(二〇〇人分)」にわたって、伝記的な情報、読了した漢詩文集についての批評、あるいはその漢詩人に対する人物評価などを思いつくままに細字で書き込んだ「詳細なメモ」(国文学研究資料館編『中村真一郎江戸漢詩文コレクション』)である。
 『覚書』の巻頭には、いつの時点で書かれたかは不明ながら、「序章」と題される文章が置かれている。そこには、今後この手控え帳をもとにして中村が著作しようと考えていた書物の執筆意図や方法が箇条書きにまとめられている。それによれば、「錦天山房詩話(きんてんさんぼうしわ)、五山堂詩話、私の凍泉堂詩話はこれに続くもの」「直接の動機としては、鴟鵂菴詩話(しきゅうあんしわ)、それとの相違」などと記されており、中村はドイツ文学者富士川英郎の『江戸後期の詩人たち(副題「鴟鵂庵詩話」)』(昭和四十一年刊)に刺戟されて、江戸期の友野霞舟の『錦天山房詩話』や菊池五山の『五山堂詩話』に続くものとして、『凍泉堂詩話』と題する詩話を著述しようと考えたらしい。
 その構想は、まず江戸時代を「Ⅰ 十七世紀(草創時代)」「Ⅱ 十八世紀ノ一(唐詩時代)」「Ⅲ 十八世紀ノ二(宋詩時代)」「Ⅳ 十九世紀ノ一(全盛時代)」「Ⅴ 十九世紀ノ二(頹唐時代)」の五期に時期区分し、その中での「全盛時代」とみなす享和~文政年間(一八〇一~一八三〇)に当る第Ⅳ期に重点を置き、さらに詩人たちを「幾つかのgroupe に分けてessai風に描く」ということが計画されていた。そして、重点となる第Ⅳ期では、「専門詩人の交遊を詩仏を中心として描く」ことが予定されており、漢詩作品の鑑賞・批評は「仏象徴派以来の詩眼」を以てし、江戸期の漢詩作品を「現代の詩、文、古今東西の詩の面白さのなかに押入する」ことが意図されていた。
 時期区分の中でもっとも興味深いとする第Ⅳ期の専門詩人たちの交遊を描くための中心に、中村はなぜ大窪詩仏を置こうとしたのか。その理由については、この『覚書』の「大窪詩仏」の頁に書きつけられた、次のような詩仏の詩についての批評がその答えを示している。「詩仏に至って、はじめて江戸の詩は近代西欧の詩に匹敵するmodernité を獲得した。ここにはVerlaine の奇数脚風の効果も、Valéry の短詩の音楽も、Renard の比喩も、Proust の奇抜な観察角度も、Giraudoux の落想も、P. Fort の都会風物も、intimistes の静思も発見される」。つまり、中村は大窪詩仏の詩にフランス近代詩と共通するポエジーを見出し、この発見を梃子(てこ)にして江戸漢詩評価の展望を描き出そうと考えたのである。
 登場詩人たちを幾つかのグループに分けてエッセイ風に描くことや、フランス近代詩との対比を多用することで江戸漢詩のポエジーを説明しようとする『覚書』に書き留められた方法は、本書『頼山陽とその時代』の方法としても忠実に踏襲されている。例えば、本書は六部構成になっているが、そのうち中心部分をなす「第二部 山陽の一族」から「第五部 山陽の弟子」までは、山陽を取り巻く人物をグループ分けして、それぞれのグループに属する人物と山陽との交渉を明らかにすることで山陽の姿を多面的に彫琢しようと試みたものにほかならない。
 また本書において例えば第三部で山陽の人間性について、「山陽の天才はラ・ロシュフーコー風の人間嫌いのエゴイズムと結びついてはいなかった。ヴォルテール流の、人集めの好きな社交性と、仕事の情熱とが両立している型の文学者だった」とフランスの文学者との対比で説明したり、本書第四部において山陽の盟友として登場する詩仏の詩を摘録・紹介した後に、それぞれの詩の特色を、「プルースト的視点の奇抜さ」「ジロードゥー風の発想」「恰もジュール・ルナールである」「モレアスやシャルル・クロスに似たアンチミスト的詩風」「ポール・フォールを連想させる明るい色彩感覚」「ヴェルレーヌの奇数脚に似た特殊な面白さを捉えている」「ヴァレリーの「風神(ル・シルフ)」を想わせる同語反覆の軽妙な音楽的効果」というように、すでに『覚書』に書き留めていた評語を繰り返す形で、フランス近代詩人たちの詩風と比喩的に対比させて説明しようとしたことなどは、時に読者に煩わしさを感じさせかねないやり方ではあるが、『覚書』において意図されていた、江戸漢詩の面白さを「古今東西の詩の面白さのなかに押入する」ために、中村が意識的に用いた方法だったのである。
 もちろん『覚書』の中には「頼山陽」の頁も設けられており、「a)詩才不世出、奔放自在驚くに足る。b)詩想が卓抜で、c)表現が鋭い。d)詩境が豊富、……」というような山陽の詩に対する高い評価が書き込まれている。しかし、『覚書』において中村は、他の詩人と比べて山陽を特別扱いしているわけではない。中村は少なくとも『覚書』の「序章」を書き記した時点では、大窪詩仏を中心にして広く江戸漢詩を展望し、フランス近代詩を基準とした詩眼に拠って、江戸漢詩のポエジーを鑑賞・分析するような気ままなエッセイを、『凍泉堂詩話』と名付けて書こうと考えていたように思われる。
 ところが、大窪詩仏を中心に据えた『凍泉堂詩話』というエッセイの計画は実現することなく、それに向けて意図した方法を生かしながらも、主題は頼山陽の評伝へと大きく転換し、本書『頼山陽とその時代』が書かれることになったのである。この方針転換がいつ起こったのかははっきりしないが、転換をもたらした直接的なきっかけは、中村が木崎好尚編『頼山陽全伝』(昭和六年~七年刊)を読んだことにあった。
 『頼山陽全伝』は『頼山陽全書』中に2分冊で収められる総計1600頁にも及ぶ詳細な伝記で、1日単位で山陽の動静を知ることのできる日譜として作成されている。これを読み進めていくことで、中村は頼山陽という人物が、幼少年期に躁鬱病と思われる神経症を発症し、それが原因となって青年期に脱藩・出奔という突発的な異常行動を引き起こし、ついには廃嫡されて座敷牢に幽閉されるという、惨澹たる状況をみずから招いた人物であることを知った。そして、その自ら招いた惨澹たる状況から脱却するために、後に『日本外史』として完成される歴史書の著述を志し、周囲との軋轢の中で、その完成へ向けて努力や決断を重ねることで宿痾をも克服していった人物であったことを、逐一知ることになったのである。
 『頼山陽全伝』によって詳細に辿られるこうした山陽の姿は、重い神経症から脱け出ようとしていた中村にとっては、恰好のモデルケースに見えた。中村の江戸漢詩研究に大きな刺戟を与えた『江戸後期の詩人たち』の著者である富士川英郎との対談「西洋詩と江戸漢詩を繫ぐもの」(『ポエティカ』第3号、1992年)において、中村は次のような発言をしている。「ぼくはノイローゼのひどいのをやったとき、頼山陽の日譜―年譜ではなく日譜という、ひじょうに細かいもの―を読んだら、山陽の病状とぼくの病状が似ているんですね。それで自分の病状と合わせて読むと、今まで謎だった伝記のいくつかのことが分かるような気がした」。中村に困難な状態をもたらした神経症は、かつて山陽を窮地に追い込んだ神経症と二重写しになったのである。中村にとって山陽は「身近な人間」になり、それまで中村が抱いていた「高言壮語する粗放な人物」という山陽像は、中村の「内部に生きいきとした姿を現象」(本書「まえがき」)させ始めるようになった。大窪詩仏を中心にして江戸時代の詩的展望を描こうとした『凍泉堂詩話』から、神経症を克服して『日本外史』を完成させた頼山陽の評伝『頼山陽とその時代』へと、中村が主題を大きく転換させるきっかけが、ここにあったことは間違いない。
 森鷗外は史伝『渋江抽斎』において、「抽斎は曾(かつ)てわたくしと同じ道を歩いた人である」、「若(も)し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板(どぶいた)の上で摩れ合つた筈である」と書いている。鷗外史伝の動機(モチーフ)を支えていたのは、主人公に対して作者鷗外が抱いていた同時代人意識だったのである。中村もまた本書において「コンタンポラン」として山陽を捉えようとした。ただ違っているのは、鷗外ができるだけ事実を発掘し、その組合せと考証によって抽斎像を刻み込もうとしたのに対し、中村は「頼山陽という一人物を、小説的な想像力のたすけを藉(か)りて再現することを目的とした」(「後記」)ということである。
 本書において随処に披瀝される、小説家中村真一郎ならではの人間観察の鋭さと「小説的な想像力」は、山陽のみならず山陽と交遊した江戸期の詩人・文人・学者たちが、紛れもなく我々の「コンタンポラン」であることを実感させてくれるのに役立っている。しかし、例えば本書第四部において、中村は山陽の友人梁川星巌とその妻紅蘭との関係を次のように記述する。「安政年代に入って、七十歳に近い星巌は早くから生命の燃焼の華やぎを感じなくなっていたと告白する。……(もし事実だとすれば、紅蘭夫人はその肉体の盛りにおいて未亡人同様の生活を強制されたということになり、彼女の「男性化」もその不自然な生理の結果ということになろうが、たとえば、今の「吉野懐古」は私には不能者の詩とは信じられぬ。寧ろ放蕩者のそれではないか。)……夫人が空閨の苦しみを味わわされたとしたら、それは夫が寒巌枯木化したためではなく、寧ろ彼がサンシュエルな世界の拡大のために、絶えず新しい冒険を求めていたからではないのか」。このような奔放な記述は、本書より以前に中村が江戸時代初期の詩僧元政(げんせい)を主人公として発表した小説『雲のゆき来』(1966年刊)と地続きになっていることを示しており、評伝としてはかなり破天荒な書きぶりになっている。ちなみに、本書の第一部「山陽の生涯」の初出稿に相当する「頼山陽―その個人生活」上・下は、小説『雲のゆき来』刊行の翌年である1967年に雑誌『中央公論』に発表されたものであった。
 しかし、こうした「小説的な想像力」を駆使した自由奔放な書きぶりこそが本書の魅力の一つであり、その書法を多用することで、中村は多面的で生々しい新たな山陽像を我々の前に描き出すことができたのである。それは、詩才・文才・史才に満ち溢れた自信家山陽の姿であり、率直と非礼が表裏をなした単刀直入な言動によって相手の心を擒(とりこ)にしてしまう人心収攬家山陽の姿であり、金銭欲や物欲をさらけ出して周囲を顰蹙させる問題児山陽の姿であり、また母親との一体化を望んでやまないマザー・コンプレックスの息子山陽の姿等々であった。
 そして、最後に一つ付け加えておかねばならないことがある。それは、本書はフランス文学者としての中村の「長い夢」の実現でもあったということである。本書の「後記」に中村は、「こういう評伝風の著作を一度、試みてみたいと思うようになったのは、青年時代の初期に、サント= ブーヴの『シャトーブリアンとその文学的グループ』に昂奮して以来のことである。その長い夢が30年の後に、計らずも実現を見ることができるようになった」と記している。実はこの「長い夢」の片鱗は、さきほど紹介した『覚書』の大窪詩仏の頁にも、「詩仏の伝記を書きながら、この時代の詩的展望を、St-Beuve 的に描く可能性を考える」という形で書きつけられていた。本書において中村は、サント= ブーヴの『シャトーブリアンとその文学的グループ』を強く意識しながら、山陽と交遊関係のあった詩人や文人や学者たちの作品や性向を丁寧に追尋してゆくことによって、当初の目論見の一つであった江戸漢詩の展望を描くことにとどまらず、文明史的に見ても興味深いとする、近代を先取りしたかのような江戸後期知識人社会のあり方というものを、我々読者の眼前に鮮やかに繰り広げてくれているのである。
(いび・たかし 成蹊大学名誉教授 日本近世文学)

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