30年越しの議論
筆者が結婚を意識する年ごろになった80年代後半――夫婦別姓の議論が俄かにもち上がり、そういう時代がやってくると胸をときめかせたものだった。学者たちが法制審議会で何年もかけて議論し、1996年に選択的夫婦別氏制度を中核とする民法の一部改正について見解が出されたにもかかわらず、国会にかけられることはなかった。議員立法での法案は、何度も提出されたが、その度に強硬な反対派によって阻まれ、審議もされないまま、廃案・再提出を繰り返し、立法府での議論は一向に進まなかった。
日本は、近代に入って作られた民法(明治31年、1898年)の家父長制に縛られ、戦後の昭和22年(1947年)の民法改正で家制度を廃止したにもかかわらず、「伝統」の名の下で夫婦同氏制度が今日までその痕跡を残してしまっている。私たちが、日本の伝統と思い込みがちなこの夫婦同氏制度は、本当に日本独特のもので、伝統と呼ぶほど古く、そして、どんな時代でも堅持すべきものなのだろうか。
社会学者の上野千鶴子氏は、著書『近代家族の成立と終焉』の中で、夫婦同姓が日本古来の伝統だという考えそのものがオカシイと指摘する。曰く「別姓夫婦なんて、大昔から日本にも世界各地にもいた。なぜ今ごろ夫婦別姓を問題にしなければならないのか、その方が不思議である。日本ではいつから夫婦別姓でなくなったのか、そう問題を裏返してみる方が正しい問いの立て方だろう」(傍点原文)
多くのカップルが、「きっといつかは夫婦別姓も可能になる」と淡い期待を抱いた。筆者の周りでも、結婚せずに別姓のまま事実婚したり、とりあえず仕方なく同姓結婚してみたものの納得できずにペーパー離婚して元の姓に戻したり、やむなく同姓結婚しておいて、後で法律が変わったらそれぞれの姓に戻す計画で待機したり、あるいは、不便な通称使用で凌いでいたりする人が山ほどいる。しかし、とにかく夫婦別姓を法制化する話は、この四半世紀、全く進展しなかったのだ。25年といえば、一人の人生として考えると、家族を育んでいく大事な期間に相当する。この間、何もしないで過ごしてきた政治家や官僚の不作為は追及されもしないのかと嘆きたくなる。
日本で求められているのは、選択的別姓なのだから、同姓にしたい人は同姓にすればよいだけだ。困っている人々を見捨て、その自由を束縛する民法や戸籍法が、民主主義、人権擁護、法の支配をうたうこの国で、いつまでも合憲と判断され続けるはずはあるまい。
だが、政府与党の中には、少数ながら岩盤のような反対派がいる。社会の声にある程度共感しても、票の行方に敏感な慎重派も多い。2020年暮れに閣議決定された「第5次男女共同参画基本計画」は、今後5年間の政府の計画を示すものだが、「選択的夫婦別氏制度」の文言すら削除され、「必要な対応を進める」という表現は、「検討を続ける」と一歩も二歩も後退してしまった。一抹の希望は、今年3月、自民党内にも100人を超える「選択的夫婦別氏制度を早期に実現する議員連盟」が設立され、国会内にも推進派が現れ始めているように見受けられることだろうか。今後の政局を見通しても、順風満帆とは言えそうにない。
立て続けの最高裁「合憲」判断
立法事実となる不都合や問題点が明らかにされてきたのに、国会が法制化のための審議にすら入らないので、業を煮やした何組かのカップルが、2011年以降、法廷に訴えた。だが、長い議論の末に2015年最高裁大法廷は、10対5で現在の状況は「合憲」との判断を下した。論点の組み立てを再考して、2018年に、改めて第2次訴訟がスタート。その間、社会ではさかんな議論が繰り返され、世論調査でも、6割以上が選択的夫婦別姓に賛成するようになって、市民感覚では「時が熟した感」があるのは筆者だけではあるまい。法務省も認めるように、今日、夫婦同氏を法律で強制するのは日本だけ。ジェンダーギャップ指数で156カ国中120位(世界経済フォーラム、2021年)の日本は、国連の女性差別撤廃委員会からも、2003年以来、再三にわたり是正勧告を受けている。
仕切りなおして挑んだ第2次訴訟であったにもかかわらず、2021年6月23日、最高裁では2015年の判断を基本的に踏襲し、11対4で合憲とした。11人もの裁判官たちの判断の要旨はこうだ。アイデンティティの喪失感や社会生活上の不利益を被るという気持ちはわからないでもないが、どちらの姓を取るかは婚姻の「パッケージ」の一つとして夫婦間で合意すればよいことなのだから、同姓を回避するために婚姻を断念したり、不本意な事実婚を選択するとしても、憲法違反ではない。そして、法律の問題なのだから、国会で決めればよいと、またもやさじを投げてしまった形だ。原告は、25年を経過しても、国会が動かないからこそ、仕方なく司法の場に訴えたのだ。「人権」に関わる問題だからこそ、多数決の国会ではなく、裁判で判断すべきだ、と主張してきたのに。
最高裁は、国民の意識の変化は客観的にみてまだ明らかとはいえないと判断した。どれほどエンパシー(違う立場の人々に思いを馳せて行動できる力)が欠如しているのだろう。いったいどこの社会や国民を見ているのだろうと感じてしまう。この20年あまり、法曹界の重鎮が気づかないうちに社会は相当に変化している。働く女性、特に結婚後も働き続ける女性は著しく増えた。外国人との結婚や外国での結婚もちっとも珍しいことではなくなっている。外国人との結婚では、届けを出すのが日本でも外国であっても別姓夫婦となることは一般的に知られ始めた。人生(平均寿命)が長くなったこともあり、離婚・再婚・再々婚などは珍しいことではなくなった。姓が同一でない家族は、現実的に増えている。国民の意識は充分に変化しているのではないだろうか。
弁護士たちも、原告たちも、希望を持つ。「法理論的に必ず勝てる」「自民党の中でさえ、推進派の動きが出てきている」と。
「夫婦別姓」の各国事情を俯瞰する ―― 本書の企画
夫婦同氏強制による「不便や困難」「アイデンティティの喪失」「カップル間の不平等」「婚姻の自由の侵害」などについては、国会や法廷で立法事実や違憲議論として現実に起きている困窮状況を論理的に説明し尽くしている。一方、岩盤反対派の理由はいつも、「家族の絆」「社会秩序」「子どもが不幸」など、仮定に基づく感情論ばかりだ。現実社会を見渡せば、世界でも、日本でも別姓家族だらけになっているのだから、世界中で社会秩序が乱れ、子どもは不幸なのだろうか。こうした事実を目の当たりにして、日本の国民、特に明日を担う世代の意識は加速度的に変化し、法律や制度が適応せざるをえなくなる日は近いうちに必ず来ることになるのだろう。それを後押しするのは、書いて発信することを生業とする私たちの務めではないか、これが本書の企画意図だ。
今回、この本の執筆に賛同したのは、それぞれの国に長く住み、日本社会の外で結婚し、子どもを持ち、育ててきた日本人のライターやジャーナリストだ。私たちは、政治や法律の専門家ではない。環境、医療、人権などそれぞれの得意分野で取材し、日本に向けて発信してきた。それぞれの国での生活者として、結婚や離婚、出産や養子縁組、勉強や子育て、親戚や友人との付き合いを通して、その時々で立ち止まり、調べ、考えながら生きてきた。そうするうちに、姓名と婚姻、姓名や家族にまつわる諸々は、ライフテーマの一つにもなってきた。
西洋には戸籍という制度がない。生まれた時に親によって「個人」として届けられ、以降、居住登録も、結婚も、離婚も、個人の記録として保存される。中国や韓国では、戸籍制度はあったが、それぞれ異なる歴史・政治体制などの影響で、家族や姓の意味あいは大きく変わっている。夫婦同姓が法律で今も強制されているのは日本のみなのだから、世界には夫婦別姓の選択肢がある国ばかりだ。だが、それぞれの社会の制度・法適用の現実は一様ではない。
日本にも、遅かれ早かれ、いつか別姓が可能になる日が来るのであれば、では、どんな可能性があるのか、どんなやり方が日本にふさわしいのか、どんな課題が待ち受けているのか、他の社会の例から学べることは多いはずだ。それぞれの社会も、長い時間をかけて、議論を尽くし、試行錯誤の末に、別姓も可能な現在に至っているのだから。そして、それはより生きやすい社会に向けて現在進行形で変わっているのだから。アメリカはこうだ、中国はこうだ、といった話なら、散発的にはあちこちで読んだり聞いたりできる世の中になった。だが、歴史的・文化的背景や法律の変遷、今日の実情や課題までを含めて集大成した読み物はないように思う。
そこで、本書の第Ⅰ部では、欧米(英国、フランス、ドイツ、アメリカ、それに筆者の住む小国ベルギー)とアジア(中国、韓国)の7カ国を取り上げ、それぞれの国で実体験を持つ筆者たちが、歴史や法律をひもときながら読みやすく解説を試みる。読者の皆さんに、姓と婚姻、家族についての、さまざまな例を提示し、ヒントや示唆を提供することを目指す。
各国事情を踏まえ、第Ⅱ部では、未だに法案審議の進まない立法府、合憲判断を繰り返している司法、当事者の立場を知るはずの経済界から、それぞれ前向きな姿勢を表明する方々を招き、ポジティブな対話に挑戦する。足かけ30年余りの長い長いトンネルの向こうにかすかに見え始めた明かりを頼りにして、選択的夫婦別姓を実現するために、今、何がネックとなっているのか、突破口の鍵となるのは何なのかについて、率直に議論してみたい。
日本では、「夫婦別姓は是か非か」というような単純な議論に矮小化されているようにも見える。「選択的夫婦別姓」といっても、そもそも婚姻は姓に影響すべきなのか、家族の姓は同一がよいのか、どのような姓を選択可能(夫か妻の姓、連結姓や創作姓など)にするのか、子どもの姓はどうするのかなど、熟考すべきことは山ほどある。
世界を見渡せば、各国とも、女性の社会進出やバイナリーな性の理解など、社会の変容に直面し、それぞれの文化や社会にとって相応しい姓のあり方を模索しているように見える。「姓」というテーマ一つをとってみても、世界は実に多様性に満ちていて、だからいろいろな可能性がある。夫婦同姓を法律で強制する最後の国となってしまったからには、他国の経験や好例から学ばない手はないと思う。
他の社会のことを知って、考えて、誰にとっても生きやすい、日本にとってより良き選択的夫婦別姓制度を設計するための一助となれば、とても嬉しい。それは、本著を企画し、賛同した執筆陣の願いだ。