ちくま新書

昭和史を知るうえで大切な20の疑問

ちくま新書7月刊『昭和史講義2』のまえがきを公開いたします。

 日米開戦前の和戦を決する重要な会議において、海軍が拒絶すれば戦争はできなかったはずだが、海軍はなぜノーと言わなかったのか。言えない事情があったとすればそれは何だったのか。さらに言えば、東条開戦内閣の海軍大臣嶋田繁太郎大将はほとんど第一線の艦隊と軍令部勤務だけでそれまで海軍省勤務の経験はなく、政治にはまったく素人で、前任海相(及川古志郎大将)からは申し継ぎもなく、「金庫のなかに書類が入っている」とのみ言われて就任したという。問題は人事にありそうだが、どうしてそのような人事が行われたのか。
 一九四一年のゾルゲ事件において、ソ連のスパイ・ゾルゲがもたらした、日本軍が北方ではなく南方に向かうという秘密情報がスターリン・ソ連の世界政策決定に決定的影響を与えたといわれる。それはどこまで本当なのか。そもそもゾルゲのスパイ網は日本の政府中枢部のどこまで食い込んでおり、どこまでの情報が洩れていたのか。ゾルゲはナチスドイツとソ連の二重スパイと言われるが本当か。またゾルゲはスターリンとどのようにつながっており、スターリンはどこまでゾルゲを信頼していたのか。
 日本の敗色が濃厚な中、原爆投下は対日作戦上必要がなかったのにもかかわらず戦後のソ連に対する威圧効果を狙ってアメリカのトルーマン大統領は投下したという説があるが、これはどこまで本当か。この原爆投下問題をめぐっては、戦後原爆投下は必要がなかったとするアメリカの修正説が日本では正統説であったように、日本とアメリカでは正統説と修正説がねじれているが、このことを知らない読者が多い。原爆投下は絶対に許されないことだが、アメリカの投下意図の真実が何であったのかは正確に認識される必要があるだろう。
 これらは太平洋戦争にかかわる大きな疑問であり、読者の知りたい素朴な疑問でもあろう。これに答えようとたくさんの議論・浮説が戦後行われて来たが、現在学界レヴェルではどのような議論が行われており、どのような結論が出ているのか。こうした読者の真摯な疑問に答えようとするのが本書である。
 もっとも振り返ってみると、出発点は昨年刊行した『昭和史講義』にある。この書は幸い多くの読者に恵まれ、版を重ねることができた。今年はその英訳版も刊行されたので世界で読まれることにもなったのである。多くの人が正確で信頼できる昭和史を求めていたおかげであろうが、裏返せばそれまでに出ていたものにあまりにもひどいものが多かったのでレヴェルの高い読者は満足できなかったのだともいえよう。
 しかし、昨年刊のこの書では取り扱うことができなかった問題が多いのも事実であった。一五講で敗戦までの昭和史全体をカバーしきれるものではないからだ。こうして自ずと『昭和史講義2』の企画が求められ、生まれてきたのである。
 だから、冒頭で挙げたような、前著では十分採り上げられなかった重要な問題が当然のように本書では採り上げられることになった。そして、それとともに、前著で採り上げた問題の中でも、概説的要素の強い内容についてはもっとポイントを絞った内容について詳しく知りたいという要求も多かったので、そうした要請にも応えるべく本書は編纂されている。
 こうして、あわせていえば、前著で未収録の重要な問題と、前著以上にポイントを絞り突っ込んだ内容について二〇講にまとめたのが本書である。したがって両者は一体であるので、本書の読者は前著もあわせ読むことをお勧めしたい。もちろん、本書だけでも昭和史の全体像はつかめるように編集はされている。
 冒頭には太平洋戦争期のことから二、三のことだけを書いたが、本書にはそのほかにも重要な内容が多い。昭和初期のことに絞って書けば、大正後期から昭和初期にかけての軍縮時代、軍人がいじめられていたことはよく知られていないし、そのこととその後の軍部の台頭との関連も一般の読者にはほとんどなじみがないことだろう。どうしてこのような重要なことが忘れられているのか不思議な気がするのだが、本書で読者はその一端を垣間見ることができよう。
 また、世界恐慌が起きた一九二九年、世界を驚かせたのは中国とソ連が満州の覇権をめぐって争った中ソ戦争であるが、これもまたその重要性に比するとほとんど知られていない。アジア太平洋地域で初めて都市無差別空爆を行ったソ連軍の軍事力は圧倒的であり、中国は屈服せざるを得なかった。この戦争が関東軍に与えた影響は大きなものであったと思われるが、この点も本書で読者は認識を深めることができよう。
 治安維持法は「稀代の悪法」として名高く、こうした法律は今日でもできるだけ制定されない方が好ましいと考えるが、では制定当時ほかの国では左右の暴力的な革命運動に対してどのような法的措置を採っていたのか。その中で日本のそれはどのような位置を占めるのか。この問いに十分答えられる人は従来いなかった。本書は最新研究の成果をもとにして、初めてそれにわかりやすく答えたものである。
 こうした国際比較を重視したのが本書の特質の一つだが、昭和一〇年代の最大の対外問題、日中戦争の和平工作についての叙述にもそれは活かされた。
 日中戦争については、様々な和平工作がありながら残念ながらどれも実らなかった。全体としてどのようなものがあったのか、どうして実らなかったのか、こうした視点が乏しかったため、これまでこの問題にコンパクトに答えられる人はいなかった。本書によってその渇は癒されると思われるが、その際、一面的にならぬようその和平工作を日本側からだけでなく、中国側からも描き、中国側・日本側双方から描くという試みを本書は初めて行っている。中国の方にも広く読んでもらいたいと思う。
 相変わらず新しい研究成果を一向に取り入れない、学問的評価にはとても耐ええないような昭和史本は刊行され続けている。本書を通して広く、専門研究の成果が一般の読者にとって共通のものとなり、正確な歴史理解を持った日本人が増えるとともに、世界の人に昭和史の真実を知ってもらうことにつながればと思う。