ある「遍在」、この「ところかまわぬ不在」
読者が自律性を獲得するかどうかは、テクストと読者の関係を多元決定している社会的諸関係を転換しうるかどうかにかかっている。この転換はどうしても不可欠なものである。しかしながら、受動性とはちがった営みが現にいま存在しているという事実 、いかに抑圧され内密のものであってもさまざまな形態をとった多型の営みがすでに存在しているのだという事実がなおざりにされるようであれば、こうした革命はエリートによるまた新たな全体主義になりかねない。エリートみずからがこれまでとはちがったありかたを提唱し、いまある教育にかえて新しい《教育》をもってこようとするような全体主義がうまれかねないだろう。したがって読むことの政治学は、これまでずっとおこなわれてきている読書という実践の実態を描きだし、それをとおしてこれらの実践を政治化するような分析と結びつかなければならない。読むという操作にそなわる様相のいくつかをとりだしてみるだけでも、いかにしてこの操作が教化という掟を逃れているかがわかるだろう。
「わたしは読み、そして夢想に耽る……。してみれば読書というのは、ところかまわぬわたしの不在なのだ。読むということは、いたるところに遍在することなのだろうか。(20)」これこそ始原的(イニシアル)な経験、そればかりか秘儀伝授的(イニシアティック)な経験というべきだろう。読むということは他所(よそ)にいるということであり、自分がいないところにいるということ、別の世界にいるということなのだから(21)。それは、あるひそやかな舞台をしつらえること、好きなように出たり入ったりできる場所をしつらえることだ。それは、テクノクラシーの透明性に支配されている実存、ジュネにおいて社会的疎外の地獄を具現しているあの仮借ない光に支配されている実存のなかに影と夜からなる片隅を創造することである。マルグリット・デュラスも語っていたものだ。「きっとひとはいつも暗がりのなかで読むのだろう……。読むということは夜闇のものなのだ。真昼に戸外に読んでいてさえ、本のまわりには夜が降りている」、と(22)。
読者は、ひとつの世界をミニチュア化した庭の生産者、島を探し求めているロビンソンである。だがこのロビンソンもまた、社会やテクストという書かれたシステムのなかに多様性と差異をもちこむ自分だけのカーニバルという夢に「とりつかれ」ている。つまりはかれは小説作者なのだ。かれはわれとわが土地を離れ、ある非―場所のなかで、自分が制作するものと自分を変容させるものとのあいだを揺れうごいている。事実かれは、ある時には森を駆けるハンターのように、書かれたもののなかになにかの獲物をかぎつけて、その跡を追いかけ、うまく「しとめて」は、してやったりと笑みをうかべたり、またある時には賭けをはってまんまとやられてしまうこともある。かと思えば、読みながら、現実のもっていたかりそめの安全性を見失ってしまう。現実から失綜してきたかれは、社会の編み目のなかにはめこまれていた安心感を失ってしまったのだ。実際、いったいだれが読んでいるのだろうか。わたしだろうか、それともなにかわたしの一部なのだろうか。「これらのテクストを読みながら自己を見失ってしまうわたし、それは、真理としてのわたしではなく、わたしの不確かさとしてのわたしなのだ。読めば読むほどわたしはテクストがわからなくなり、すべて何がなんだかわからなくなってしまう。(23)」
数をあげられるわけでもないし、引用できるわけでもないけれど、わたしの知っているいろいろな読者の証言、それも識者にかぎらない証言が確かなら、これはだれにも共通の経験である。男性読者、女性読者をとわず、読むものが『あなたと二人』だろうと『農業フランス』だろうと『食肉業通信』だろうと関係なく、だれしも覚えのある経験であり、日常生活のアマゾンたちやユリシーズたちが渡ってゆく空間がどれほど低俗だろうと専門技術的だろうとかかわりなく共通の真実である。
作家たちは固有の場の創立者であり、古来からの勤労を引き継いで言語という土壌を耕す後継者であり、井戸を掘り家を建てる者たちだが、そんな作家たちからはるかに遠く、読者たちは旅人である。他者の土地を駆けめぐるかれらは、自分が書いたのではない領野で密猟をはたらく遊牧民であり、エジプトの財をかっぱらっては好きなように楽しむのだ。エクリチュールは蓄積し、ものを貯蔵し、場所を確立することによって時間にあらがい、再生産という拡張主義によって生産の増大をはかろうとする。読むことは時間の摩滅から身をまもろうとせず(ひとはわれを忘れ、読んだものを忘れる)、自分の獲得したものを保存しないし、保存したところでいいかげんで、それが通り過ぎてゆく場はひとつひとつが失楽園のくりかえしなのだ。
事実、読むことは場所をもたない。バルトはスタンダールのテクストのなかでプルーストを読む。テレビの視聴者は報道番組を見ながら、画面に自分の幼年時代の一コマを読む(24)。前の晩に観たテレビ番組のことを、こんなふうに言う女性がいる、「くだらなかったけど、それでも観ていたの」、と。いったい彼女はどんな場所にとらえられていたのだろう。いったいどこの場所の映像をみて、しかもそこに映っていないどんな場所をみていたのだろうか。本を読む読者も彼女とおなじことなのだ。読者の場所は、ここかあそこ、この場所か別の場所か、ではなくて、ここでもあそこでもなく、同時に内部であり外部であって、二つをひとつにしながらいずれをも失い、横たわるさまざまなテクストを結びつけてゆくのだ。自分が目覚めさせ、そこに招かれた客でありつつ、けっして所有者ではないテクストの数々を。そのことをとおして読者はそれぞれのテクストに特有の掟をかわし、同様に社会階層の掟をかわしているのである。
*文中のルビはカッコ内に示した。また傍点は下線に変更した。
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注
(20)Guy Rosolato, Essais sur le symbolique, Gallimard, 1969, p. 288.〔佐々木孝次訳『精神分析における象徴界』法政大学出版局〕
(21)アヴィラのテレサにとって読書は祈りであり、欲望が明るみにもたらされるもうひとつの空間の発見であった。他にも霊的経験によって書く者たちはほとんどが同じように思っており、子どもはすでにそのことを知っている。
(22)Marguerite Duras, le Camion, Ed. de Minuit, 1977. および《Entretien à Michèle Porte》,( Sorcières, no 11, janv. 1978, p. 47に引用)。
(23)Jacques Sojcher, 《Le professeur de philosophie》, in Revue de
l’Université de Bruxelles, 1976, no 3–4, p. 428–429.
(24) R. Barthes, le Plaisir du texte, op. cit., p. 58.〔鈴村和成訳『テクストの楽しみ』みすず書房〕