私が小学校一年か二年、弟はまだ幼稚園に通っていた頃のことです。ある日、母が私と弟を連れてバスでどこかへ向かいました。「どこか」としか言えないのは、実は母と私たち兄弟はその日、どこにも行かずにバスからも降りずそのまま家に帰ってきたからです。そのバスは母の実家のお祖母さんの所に行く時に良く乗っていたバスなので、その日も私はお祖母さんに会いに行くと思っていました。しかし、いつもの停留所にバスが止まった時に、母は降りなかったのです。
なぜ降りないのと聞いた私の質問に母がどう答えたかは覚えていませんが、なぜかバスの中でキムパプを美味しく食べたことは覚えています。しかもその日のキムパプはなぜか大量で、食べたあとにお腹が一杯になったことを覚えています。キムパプ、普段より静かだった母の顔つき、普段より大きかった母のカバンなど、今になって考えてみるとその日の母は私たちを連れて家を出ようとしたのではないかと思うのですが、一度も母にその日どこへ行きたかったのか、聞いたことはありません。
『彼女の名前は』を読んで、忘れていたその日の母のことを思い出しました。そして、忘れていた自分の中の韓国が一つずつ戻ってくることを感じました。友達に会って夜遅く帰ってきた母に浮気をしているのではないかと疑う父の怒る声を盗み聞きした記憶、離婚した若い叔母さんを「ダメな女」と呼んだ父のこと、親戚の皆が集まると母と叔母さんたちが台所で料理を作って父や男の兄弟たちはただテレビを見ている風景、クラスの女の子たちに可愛さで点数を付けた紙を授業中にこっそり回した男の子たち、男の子たちから「かぼちゃ」と呼ばれて虐められた中学時代の女の子、先輩のシモネタを聞かされて「お前の話をしてみろ」と強要された軍隊の記憶……。「お前はどうする?」と聞かれて、何か拒否感を感じて皆と同じ行動を取らないと「男らしくない」とバカにされる環境。そこにはもちろん、女性自らの声はありませんでした。
「男」として求められるそのような縛りが嫌で、兵役が終わってからは自分はあんな男にはならないと心を決めて生きてきました。いわゆる男社会から距離を置いて、言動に気をつけて、女性に対する自分の態度は間違っていないか自問することを繰り返してきました。女性への優越をはっきりさせて自分の価値を確認する男たちの群れには入らないと、線を引いてきました。加担しないと、せめて悪い男にはならないと思ってきました。それで充分だと思っていたかも知れません。
『彼女の名前は』は、著者のチョ・ナムジュさんの前作『82年生まれ、キム・ジヨン』よりも更にスコープを広げて様々な職場や環境、年代の女性たちの経験を語り、韓国の社会の全ての場面に性差別が深く根付いていることを再び確認させます。主人公を三人称で描写した『82年生まれ、キム・ジヨン』と違ってほとんどの物語が「私」の一人称で展開される今作は、著者の取材に基づいた生々しい話に溢れています。社会人として一歩を踏み出す若い女性たちの物語が中心の第1章、結婚・出産・育児・家庭という環境の中の女性たちを描く第2章、中年層の女性たちの労働と人生に対する信念を語る第3章、そして社会を変えるために動いて戦う女性たちを紹介する第4章まで、今作は韓国社会で女性として生きることとは何かをあらゆる角度から照らして見せていると言っても過言ではないでしょう。
驚くほど日本と似ている韓国の状況が描写された『彼女の名前は』から、女性の読者なら熱いシスターフッドを感じるかも知れません。しかし、私にとってこの作品は今までの自分の甘い考えを厳しく叱るような「警告」でした。「加担しない」ということだけで、社会のどの場面でも蔓延している性差別と自分は無関係のように生きていたのではないかという、厳しくて重い警告です。男性の読者において「俺は何もしてない」で簡単に逃げることを許さない、無関心のまま聞き逃してはいけない強烈な証言が込められている作品です。