ちくま新書

リベラルと民主主義を蘇生するために
――Welcome to politics.

「人の支配」政治が相も変わらず繰り広げられる永田町。保守も保守なら、リベラルもリベラルだ。「フェイク」リベラルの「ハリボテ」民主主義ではもう闘えない。「人の支配」を脱却し、「法の支配」を斬新に提言する、気鋭の法律家による挑戦状――9月新刊『リベラルの敵はリベラルにあり』「はじめに」の一部を公開します。

 大学時代に憲法のゼミに所属し、主に日米の憲法の論文を読み漁って憲法学の魅力に取りつかれた。「個人の尊厳」、「切り札としての人権」、「表現の自由の公共的使用」……個々人が自分らしく生きる「善き生の構想」とそのための国家権力の在り方を追求する理念や言葉。その言葉が放つ力と輝きを確信したあのときから、私は「リベラル」だと思想自認している。

 そんな私が初めて政治の世界と接することになったのは、2015年のいわゆる安保法制の審議のときである。雇われ弁護士から独立開業した翌年、弁護士3年目の春、弁護士業界の親方「日弁連」から、安保法制の国会議論における法的な論点整理役の指名を受けた。始まってみると、作業は論点整理にとどまらず、連日議員の質問を作成するところまで戦線は拡大し、衆院審議の最後には私自身が公聴会における参考人として意見陳述も行った。弁護士としても個人としても、人生が変わった。

 大学時代、図書館の閉館時間まで読み漁っていたあの論文の字面の実践に携わることのできる高揚感。リベラルな価値はその普遍性ゆえに最後はきっと勝利するのだ、というウブすぎる感覚。憲法に象徴されるリベラルな価値への確信を心に秘めて、論戦に臨んだ。

 しかし、そんな思いは、二つの意味であっさり砕け散った。一つに、権力はそんなにピュアではなかった。そしてなにより、リベラルがリベラルではなかった。

 安保法制の採決がなされ、その狂騒が幕を下ろしているとき、権力に負けたという感覚よりも、内なる何かに負けているという感覚を強く持った。違和感を言語化できないままに、その後も様々な政治的イシューとともに時間が過ぎた。テレビで見ていた政治家や憧れの憲法学者、高名なジャーナリストともたくさん接する機会を得た。

 その経験を通じて、確信したのだ。

「リベラルの敵はリベラルにある」

 現在、日本に真のリベラル勢力が存在するのかという根本的な問題も含めて、我が国ではリベラルと目される勢力は極めて劣勢である。リベラルが語る言葉や社会設計は、およそ一般の生活者には届かないし響いていない。

 まず、実質において、「リベラル」が語る社会設計には現実味がない。リベラルな社会の基礎単位である「個人(individual)」概念が現実の生身の個人と乖離しすぎているのだ。リベラルはその初期設定において「合理的で強い」個人を前提としたが、我々誰しもが気づいているとおり、生身の個人は、しばしば不合理な選択をするし、説明のつかない儚さや弱さを内包した存在である。それにもかかわらず、リベラルな社会設計はおよそ「合理的で強い個人」概念から出発して構築されるため、現実の「個人」とのギャップは、必然的に法制度や国家像に歪みとなって反映されてしまう。

 もうひとつ、リベラルが語る言葉が生活者に届かないのは、リベラルな価値を共有する対話の姿勢が上から目線に過ぎるからだ。

 本来、リベラルな価値を守るための「不断の努力」(憲法12条)は、自分と価値観が違う人間に対しても、辛抱強く伝えようとし続ける企てであったはずだ。しかし、リベラルは、自陣のロジックの正しさを、まるでそのロジックが唯一絶対の正解であるかのごとく「上から目線」で語り続けるばかりだ。リベラルがリベラルの価値をその対話の姿勢に体現させるという不断の努力を放棄しているのだ。

 このリベラルが抱える2つの病理を通奏低音として、本書では、リベラルな「強い個人」概念を一度初期化し、生身の「弱い個人」との調停を目指す。もちろん、個人概念という実質だけではなく、方法論としての「熟議」の新しい在り方も提示する。

 さらに、本書のもう一つのコンセプトは、現代の日本政治における「リベラル」な思想のマッピングである。本書には、現代政治をリベラルな視点から語る上で欠かせない憲法学者や研究者、ジャーナリストなどが相当数登場する。日本の論壇でリベラルを冠して政治や法を語る人々がどのような文脈でどのような論陣を張ろうとしているか、それを読み解く手がかりに使ってほしい。

 その上で、己の思想的恋人を探すのは各人にお任せするが、それぞれの知識人が、客観的にいかなる立ち位置をとり、そして何より現代社会の課題解決に向けていかに意義ある提案をしているかorしていないかを相関関係図の中で理解することは、リベラルの未来を創造するために極めて有益だと考えている。そのあたりも楽しんで欲しい。

(中略)

 この「はじめに」の冒頭に、「Welcome to politics.」と掲げた。

 これは、ベネズエラ人(現在はスペイン国籍)指揮者でLAフィル音楽監督のグスタヴォ・ドゥダメルが、ベネズエラで憲法停止などを行う独裁マドゥロ政権に公然と反旗を翻したときのマドゥロ大統領の応答だ。ドゥダメルが、「ベネズエラ国民の声を聞き」「反対意見を表明し、互いを尊重し、寛容に、対話を自由に行える」制度を構築することを求めたのに対して、マドゥロ大統領は出演したテレビで皮肉たっぷりに「Welcome to politics.(政治へようこそ)」と挑発・宣戦布告としたのだ。

 私が丸腰で政治の境界線に近づいた2015年。当時は聞こえなかったが、思えばあのときに、その後深く因縁をもつこととなる"政治的なるもの"からwelcome と言われたのだと思う。自覚なく近づいた私は、今もなお、その政治的なるものの磁場に自分らしさを失うかもしれないと思うときがある。welcome という言葉が持つ友好的な語義とは裏腹に、その響きはむしろ私たちに対して、「覚悟はあるのか?」「本気か?」「本当にいいんだな?」と不気味に迫ってくる。

 これは私に限ったことではない。「我々が政治に無関心でも、政治は我々に無関心ではない」との言葉どおり、政治は貪欲で常に我々を「調達」しようとしている。熱心に活動する人も、無関心を決め込んでいる人も、同様に政治に取り込まれている。今春のコロナウイルスをめぐる状況を思い出せば、実感できるだろう。

 このことに自覚的になり、政治を乗りこなそう。そのときの羅針盤として機能すべき、現在風前の灯である"リベラル"な価値観を再生するための企てが本書である。

 私が議論の対象にしたいのは、与党でも野党でも特定の政治家でも政党でもない、その先に広がる、いまだ日本政治、日本社会が獲得していないリベラルの地平だ。

 本書を始めるにあたって、私は、語義どおり「明るく」「リベラルに」、民主的熟議の主語としての「私たち」の潜在的一員であるあなたに語りかけたい。もちろん、「覚悟」も「本気」もいらない。

 Welcome to politics !

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