ちくま新書

古事記・日本書紀の変容を追う

国の礎となる古事記・日本書紀が、近代において変容する様を描いた『変貌する古事記・日本書紀』。本書では、各地を平定する途次に敗れ、白鳥となって飛翔した悲劇の皇子ヤマトタケルの説話と海の彼方の理想郷から不死の果実をもたらしたタヂマモリの説話をとりあげて考察しています。以下に公開するプロローグでは、『古事記』『日本書紀』の変容の背景を語っています。 冒頭は明治政府が天皇の正当性を広めようとする話から始まります。

†知られざる統治者

 十九世紀後半、我が国は徳川幕藩体制より天皇を戴く薩摩・長州を中心とする維新政府による政体に移行した。
 これにより、近代社会の到来と見なしているわけであるが、従来の武家政権から天皇政権への移行ということは、古代社会への先祖返りとも逆行ともいうべきものであった。
 古代において我が国を統一した大和朝廷の最高位に君臨した天皇であったが、乙巳の変以降の藤原氏の台頭、さらに平安期における摂関政治を経て、平安後期からの武士階級への実質的な政権移行から、江戸期における徳川幕府による長期安定政権後において、その知名度は、一部の知識階級の尊皇論者や天皇の居住する京都周辺の人々を除いて著しく低下していたのであり、明治維新政府が発足した後もほとんど変化のない状況であった。
 それは、維新政府が国是(基本的方針)として慶応四(一八六八)年に発布した五箇条誓文と同日に告諭した宸翰に、

 中葉朝政衰てより、武家権を専にし、表は朝廷を推尊して、実は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能ざるやふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯名のみに成り果、其が為に今日朝廷の尊重は、古へに倍せしが如くにて、朝威は倍衰へ、上下相離るゝこと霄壤の如し

と、武家政権は朝政を推尊するふりをして、その実、人民の実情を知ることができないように計ったので、ついに名ばかりに成り果てた。そのため、今日朝廷は古に倍するほど尊重されるに至ったが、その威力はますます衰え、天皇と人民との距離は霄壤(天と地)ほどの大きな隔たりがあるとした如くである。
 明治二年二月に太政官が奥羽地方の人々に諭示した「奥羽人民告諭」には、

天子様ハ、天照皇太神宮様の御子孫様にて、此世の始めより日本の主にましまし、神様の御位正一位など、国々にあるも、みな天子様より御ゆるし被遊候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民も、みな、天子様のものにて、日本国の父母にましませば

とあり、天皇がアマテラス大神の子孫であり、この世のはじめから日本の主人であること、すべての土地と人民は天皇のものであることを告示している。
 そして、天子は「日本の地に生れし人々は、ひとしく赤子と思し召され、一人として安堵せぬ者もなく、蝦夷松前のはてまでも、御憮恤の行届き候様にと、日夜叡慮を労られ、ない〳〵有がたき御措置らいもあらせられ候事なれば、諸事仰出されに背かず、安穏に家業を出精いたし可申、かへす〳〵もさわぎ立申まじく事」と、天皇は日本に生まれた人民を我が子(赤子)と思い、日本国中、その憮恤(めぐみ)が行き届くようにと日夜考えているので、命に背かず、家業に精を出すようにと締めくくっている。
 さらに、明治政府は民衆にとって無縁な存在であった新しい統治者を周知させるために各地に天皇の行幸や巡幸を行った。
 明治六(一八七三)年四月に行われた鎌倉行幸において、保土个谷・戸塚の人々は、「天子様ノ御通リガアレバトテ以前ノ大名抔ノ御通リト違ヒ御人数モ至テ少ナク且一文ニモナラス路ノ掃除ヲシロノ何ンノト面倒ナル事ノミナレハ天子様ノ御通行ハ甚タ迷惑ナリ」という態度であり、鎌倉に天皇が着いた折、これを拝しようと出てきた住民の数も予想より少なかったということが、太政大臣三条実美の密偵の報告書に述べられている。
 天皇が身近に存在する京都・近畿圏周辺と東国・奥州とでは、その認知度は自ずから相違があったであろうが、多くの一般民衆にとって天皇は未だ認知されざる支配者であったことを、これらの資料は示している。
 よって、明治維新後の新政府が、天皇の国土統治の由来とその正当性を汎く普及させようと躍起になったのは理の当然といえよう。
 そのひとつの方策として、天皇が最高神アマテラス大御神の子孫であり、カムヤマトイハレビコが橿原で即位し初代天皇神武となる由来を語る、八世紀初頭に成立した『古事記』(和銅五[七一二]年成立)、『日本書紀』(養老四[七二〇]年成立)などの神話や物語を知らしめることが行われていったわけである。

†『古事記』『日本書紀』という書物

『古事記』は、その序文に、古代最大の争乱である壬申の乱(六七二年)に勝利した天武天皇が、二十八歳の聡明な舎人(側近)・薭田阿礼に命じて作成が開始されたが、天武が朱鳥元(六八六)年に崩じたことにより、その編纂作業は中断し、和銅五(七一二)年、平城京遷都を執行した元明天皇の命令で、生存していた薭田阿礼と太安万侶によって四ヶ月月をかけて新たに作業が行われ、献上されたと述べられる。
『日本書紀』は、『古事記』のように序文を持たず、その成立過程を語るものが存在しない。
 唯一、奈良時代の歴史を記した『続日本紀』の養老四(七二〇)年五月条に日本紀(三十巻、系図一巻)が修されたとあり、その成立が『古事記』完成の八年後であることが確認できるだけである。
 ただ、『日本書紀』天武十(六八一)年三月に、天武天皇が大極殿に皇子や諸臣を集めて「帝紀及び上古の諸事」を記録し、確定させたという記事があり、これが『日本書紀』の編纂作業の開始であろうと考えられる。
 つまり、『古事記』『日本書紀』共に、その成立に天武という天皇が関与していると考えられるのだが、両書はきわめて類似する構成をとっている。
 はじめに、世界の始まりと日本の国土ならびに神々の生成が語られ、天上世界「高天原」の主宰神アマテラスが、大国主神の支配する葦原中国(地上)を譲り受け、アマテラス大神の孫ニニギが葦原中国に降臨し、その曾孫が初代の神武天皇となって国土を統治したとされ、その後、歴代天皇の統治の様が語られていく。
 初代天皇神武は、日本の最高神(アマテラス大御神)の子孫であり、神々の物語と人の世の物語が断絶せず、一続きのものとして構成されている。
 天皇が最高神アマテラスの子孫であることを明示するために、神話が両書の巻頭に載録されたということである。

†記紀神話伝承の性格

『古事記』序文には、

 朕聞ききたまへらく、諸家の齎る帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚偽を加ふ、といへり。今の時に当たりて、その失を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむと欲ふ、とのりたまひき。

と、諸家の所持している帝紀・本辞(天皇系譜や神話、氏族の古伝承)がすでに多く虚偽を含むものになってしまっているので、今その誤りを正さないと本来の内容が滅びてしまう。
 これらの伝承は国家を運営する根本であり基本だから、偽りを削り、正しい伝承を定めて後世に伝えようと思うと、その作成理由を記している。
 古代社会において、各氏族の伝える神話伝承は、現在の朝廷内での自分たちの地位や権限を保証するものとしてあった。
 彼らは、その伝承において、己の氏族の事績・功績を語り、それが承認されることで朝廷内での氏族の存立基盤を確保した。
 当然、各氏族はおのれにとって都合のよい伝承を求め、時には改変・作成し、それが多くの虚偽を生じさせることとなったのである。
 それを天武天皇が、正しい神話伝承を新たに定めるというとき、それは、他の氏族と同様、古伝承を天皇家にとって正しいと判断されるもの、天皇家に都合の良い伝承に改変するということに外ならない。『古事記』に載る神話は、天武天皇によって変容させられた神話伝承であるということができる。
『日本書紀』は、全三十巻の中で、神話を載せる巻一と巻二だけが他巻とは異なる構成をとっている。本文を割るかたちで、「一書」という別伝承が差し挟まれるのである。多いところでは十一もの「一書」が附加されている。
 これにより、当時、多くの神話伝承が併存していたことがわかるが、その中から『日本書紀』編纂者は、その意図するところにより、本文とするものを選択もしくは改変していったと考えられる。
 一書は、奈良末から平安初期に書写されたとされる巻一神代巻の断簡である四天王寺本や佐佐木本が、一書を小書二行で記していることから、『日本書紀』成立当初、本文に註として附されていたものと考えられ、掲載されているにしても、あきらかに、それは本文とは区別されているものである。
 近代において、天皇の国土統治の由来とその正統性を語る神典として持ちだされた『古事記』『日本書紀』自体が、既に古代の神話伝承を、天皇の意向に沿って取捨選択し改変したものであることは覚えておいていいだろう。

†記紀以降の神話変容

 平安期には、氏族による利益確保のための神話の変容の例を見いだすことができる。
 大同二(八〇七)年、斎部広成によって『古語拾遺』という神話・伝説の書物が作成された。斎部氏の「斎」字は、延暦二十二(八〇三)年に改めたもので、元は「忌部」であり、宮廷祭祀の主として祭祀具の製造や神殿・宮殿造営に従事してきた名門氏族であった。
 その斎部氏と中臣氏で執行していた朝廷祭祀が、この時期中臣氏に集中したため、古伝承(『古事記』と『日本書紀』の記事に斎部氏の伝承を附加したもの)撰上により、古において両氏族の対等であったことを述べて自氏族の地位回復を願ったのである。
 これは、斎部という氏族による、『古事記』『日本書紀』神話の改変であり、変容である。
 氏族の持つ神話伝承は、古代において、現実の自分たちの地位や権力に直結していたのであり、それは後世のように単に楽しむだけのものではなく、語られること、もしくは読まれることによって、共有され、承認されて自氏族を利する力を発揮していったのである。
 また、平安初期九世紀後半に、物部氏によって編纂されたと推定されている『先代旧事本紀』という書物も、自氏族の顕彰を意図して『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の神話伝承を改変引用し、そこに独自伝承を附加することによって作成されている。
 さらに、巻末に天平三(七三一)年と記すが、その最終的な成立は九、十世紀頃まで降ると考えられる『住吉大社神代記』は、住吉大社の神威の顕彰を目的として、その神主津守氏が『日本書紀』『古事記』を引用もしくは抄録し、そこに独自伝承を附加することで成立している書物である。
 そして、中世期における寺社が、『古事記』『日本書紀』を元に、そこにはみられない新たな神話伝承を作成していった、所謂「中世日本紀」と称する運動もその流れの延長線上にあると考えてよいだろう。
 天皇が古代のように政権の頂点に返り咲いた近代においても、明治政府の意図に合わせて記・紀の神話伝承は利用・改変がなされていった。
 そして、それは支配者だけでなく、被支配者である国民の側も同様であった。自己の利益を追求する中で、権威を有する記紀神話・説話を変容し、利用していったものを、新聞、教科書、雑誌、挿絵、絵画、絵葉書、引札、ポスター、博覧会等のメディアにみることができる。
 本書では、それら記紀に載録された古代説話がどのように改変され、変容していったのか、そしてそれは如何なる必然であったのかを跡づけてみたい。

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